好きです!掲載のお知らせ
カテゴリー:⑪番線:哲×鉄 車内放送 2020年1月29日 04:59
このたび、朝日新聞夕刊「好きです!」欄におきまして、車掌長を紹介していただきました。
毎週月曜日掲載の同欄、1月27日付における記事の主題は「時刻表」。
副題は「毎月購入40年 机上旅行へ出発」となっておりました。
このコーナーは、色々な趣味を持っている人物が登場。
そして、そのきっかけや魅力などを語り掲載記事となりましたが、車掌長以外にも、毎週様々な御方がご自身の趣味を披露しておられ、面白いと思っておりました。
同紙デジタル版でも、掲載記事を読むことができるようです。
なお、途中で記事が途切れますが、無料会員登録をすれば、続けて全文が読めるようです。
もし、宜しければお読みいただけますと、幸甚に存じます。
大人の階段
カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2020年1月22日 04:58
先般、「大人エレベーター」について綴り、ふと、思った。
エレベーターで昇るのは、ずいぶん「楽」してないか…と。
大人になるための精進や鍛錬、苦行は、「階段」が相応(ふさわ)しいのではないか…と。
学生時代、中学時代の親友と四国を一周したことがある。
その際、初めて讃岐の「こんぴらさん」を参拝したとき、長い階段をお年寄りが駕籠に乗ってラクチンの様子で上がってゆく光景を見た。
そのとき、「いつかはクラウン」ではないが、「いつかは駕籠で」でなどと、若気の至りで短絡的に思ったものだった。
ちなみに、この駕籠、今月末(2020年1月末)を以って、唯一残っていた業者が、後継者がおらず営業を終了するそうだ。
「いつかは駕籠で」の憧れは叶わなくなった…
次回参拝時も、やはり自力で上がることになるが、息を切らしながらも、元気や健康であることを噛みしめながら、感謝の念をもってひとつひとつの階段を踏みしめられたら、本望だと思えるようになった。
話が脱線したが、申し上げたかったのは、こんぴらさんの階段が「大人の階段」ではない。
人生を全うに生きれば、老後のご褒美として、お金も必要だがそんな「楽ができる」選択肢もあることを知ったにすぎない。
一方、「大人の階段」ですぐさま連想してしまうのは、「想い出がいっぱい」の曲。
♪大人の階段のぼる 君はまだシンデレラさ
幸せは誰かがきっと 運んでくれると信じてるね
車掌長も高校時代によく観た、TVアニメ「みゆき」の主題歌としてヒットしたが、今も歌い継がれる名曲であり、大好きな曲である。
さて、車掌長もそろそろ出勤準備に取り掛かればならない時刻となった。
話をまとめよう。
つまるところ、大人になるため、或いはそれを確認する手段は、エレベーターであっても階段であっても良いのだが、大切なことは、「大人」とは外見ではなく、内面、中身だということではないだろうか。
ここでいう外見とは、文字通り、他人が目にする容姿や見た目、鏡に映る自身もそうだが、一方で、所属する会社や組織における立場や地位など、世間体を気にすることも「外見」だと、車掌長は捉えている。
ただ、外見とは、それを気にするあまり、自身をちっぽけな存在に陥れてしまうものでもある。
それよりも、生涯の不変的な自身の糧になるような、内面・中身を精進させることの方が、やがて終わりを迎えるサラリーマン人生以降の、肩書や役職が何ら意味を持たない、「素の自分」で歩む第二の人生を豊かにできるように思う。
図らずも、堅苦しい話になってしまった。
ここで締めくくりと思ったら、末筆ながら、突如タキシードを着たウサギが現れ、「時間の国のアリス」の曲をウサギが口ずさみ去っていった…
♪誰だって 大人にはなりたくないよ
永遠の少年のあなたがいうの
車掌長も戯言を綴りつつも、まだまだ大人の階段の「踊り場」にいるようだ。
大人エレベーター
カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2020年1月19日 05:05
毎正月、箱根駅伝をTVで観ている。
熱戦のレースの合い間に、某ビール会社のCMが入るが、車掌長はこのCMが大好きだ。
そう、サッポロビール提供の「大人エレベーター」シリーズ。
その年、その年、青年役の某俳優が乗り込むエレベーターが、或るフロアまで上がる…
そのフロアは、大人役である出演者の年齢と同じである。
そして、そのフロアで扉が開き、それぞれが語る「大人とは」「人生とは」など、青年役が問いかける短くも端的な質問に、大人役が自身の生きざまから会得(えとく)した、それぞれの名回答を語るのが面白い。
人は誰しも、自身の大人エレベーターの階数をひとつひとつ、一年一年かけて積み上げてゆくわけだが、各人の「大人エレベーター」にも、その階その階、つまりその歳その歳の物語がある。
そして、車掌長においては、その歳が終わりかける毎年1月を「一日」という単位に置き換えたとき、一日の終わりとなる51歳の夜景は、どう心の目に映るのだろうか…と想像する。
そろそろ、51階の釦(ボタン)を押し、このフロアへ上がる心の準備をしておきたい。
果たして、51階から見える夜景はどんな光景だろうか…
冬の晴天のクリアな夜空の下、宝石を散りばめたような光景か、或いは、どんよりした視界の効かない霧中か…
また、51階の扉が開いたときにいるはずの大人役である車掌長自身に、「51歳とは?」と問いかけたとき、どんな答えが返ってくるだろうか。
いずれにせよ、新たなフロアにひとつ上がる来月は、一日の始まりである朝を連想する…
新たなフロアに上がり、52歳という1年を1日に置き換え、最後に素敵な夜景が観られるよう、心新たに精進したいと思う。
ところで、自身の大人エレベーターは、何階まであるのだろうか…
それは、誰にも分らないが、冒頭のCM最後にこんなフレーズが現れる。
「丸くなるな ☆星になれ」と…
そんな言葉を胸に、いつか判明する最上階を目指し、ひとつひとつのフロアを昇ってゆきたい。
成人の日
カテゴリー:④番線:日々雑感方面 2020年1月13日 05:43
今日は「成人の日」とのこと…
昭和生まれの車掌長にとっては、成人の日は1月15日との認識が、いまだ抜けきらず、毎年変わるこの日の日付にとても違和感がある。
とは言え、必ず3連休になる現在の「国民の祝日に関する法律」に則った方が、より多くの新成人が故郷でお祝いされたり、懐かしい仲間と交流できることを思えば、理にかなっているとも思える。
ところで、この「成人」についてだが、2022年(令和4)からは、18歳が成人となる。
ちなみに、同年19歳になる人々も、同時に「成人」となるそうだ。
また、従来の20歳成人の人々も、同年同時に「成人」になるようだから、2022年は3年分の「成人」が誕生することになるとのこと。
しかしながら、各自治体で祝される「成人式」は、18歳で行うのか、従来の20歳のタイミングで実施するのかは、各自治体判断に一任のようで、なんか煮え切らない感が否めない。
ただ、上述の法律で「成人の日」の意義は、こう謳われている。
「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」と。
話が脱線してしまうが、「成人」と「元服」とは似ているようで非なるものがある。
元服とは、男性と女性では対象年齢が違ったようだが、車掌長は中学2年時、つまり14歳の頃、クラス担任が「元服」について話してくれたことをよく覚えている。
そのとき、昔は君らと同じ歳で「成人」とされ、意識も責任も大人と同じものを自覚させられ、周りも一人前と扱った、という趣旨であった。
さらに脱線するが、「14歳」で思い出したのは、TVアニメ「ベルサイユのばら」の第一話。
マリーアントワネットの輿入れの際、護衛を担当する近衛隊の隊長に国王から任命された際、様々な葛藤の上、軍服に身を包み「女性としての人生と決別し、新たな大人の世界の第一歩を踏み出す」。
このとき、オスカルは14歳であった。
話を元に戻そう。
つまるところ、「成人」とは、法的な必要性は置いといて、本質的には単なる数字としての年齢ではなく、「本人が大人になる自覚」が芽生えた時点を指すのがふさわしいのだと、実感した。
なにはともあれ、現行制度の20歳で成人となる皆様には、祝意を表明したい。
足るを知る
カテゴリー:④番線:日々雑感方面 2020年1月 8日 05:52
先日、急遽風呂場のリモートパネルの電源が入らなくなり、不具合に陥った。
風呂をわかしたり、湯温や湯量調節が風呂場でできる便利なものだったが、その便利さを意識もせず、「あたりまえ」に日常使っていた。
いざ、使えなくなると、途端に「不便さ」を痛感した。
台所にも同じ別のパネルがあり、ここでも風呂で使う湯の諸調整ができるのだが、入浴中に大声を出して専務車掌を呼び、その操作をお願いするのも気が引ける…
したがって、入浴前にあらかじめ使う湯の温度を台所で設定してから、風呂での湯を使うわけだが、車掌見習と一緒に入ると、シャワーの湯温は41~42度が適温のようだが、熱めのシャワーが好きな車掌長は43度はほしいところ…
若干熱めにしたかったり、その逆を適宜操作できず、不便は不便であった。
そんなとき、湯舟に浸かりながら思ったことがある。
「足るを知る」という言葉…
時折、意識的にその言葉を思い出したり、大切にしている心構えのつもりでいたが、最近は失念しかけていたようだ…
無いもの、足りないものを嘆くのではなく、現状有るものや足りていることに、満足や感謝をするように理解しているが、「足りていることがあたりまえ」に思っていたフシは強くなかっただろうか…
それにしても、「足りる」「足らない」という漢字は、なぜ「足」なのだろう?と素朴な疑問も抱く。
「満足」「充足」「過不足」「自給自足」etc
これは、車掌長の持論に過ぎないが、「足」とは歩くための身体機能と捉えれば、何かの目的に向かって「歩く」、言い換えれば努力することのボリュームや熱量に対し、自身の満足度や不足度を感じるのではないか…と、勝手ながら位置づけている。
先人は「千里の道も一歩から」とか、「百里を行く者は九十を半ばとす」とか、車掌長の好きな言葉を残してくれているが、どれも自身の「足」で踏み出さなければ、始まらない。
日常、うんざりするほど煩雑な物事をこなす中で、自身の楽しみや人生の目標に向かって歩くことは、「足るを知る」こととセットにすることで、その長い道のりを無理なく完歩できるのかもしれない…
ちなみに、昨晩、これまた急遽、風呂のリモートパネルが3日ぶりに復旧…
振り回されることも、「足る」を実感する醍醐味に思えた。