祝・東北楽天イーグルス日本一
カテゴリー:④番線:日々雑感方面 2013年11月 4日 08:23
今朝7時のNHKニュース、冒頭約8分の時間を割き、東北楽天イーグルスの日本シリーズ優勝を報じた。
昨夜の熱き試合の名場面と、彼らを各地、各場所で勝利を祈り、応援し、見守る東北の人々の姿や歓声に共鳴した。
そして、優勝の歓喜と感動は、これまで復興とは名ばかりと言わざるを得ない行政への苛立ちとは裏腹に、東北の人々に心のこもったその苦労への労いや、勇気、希望を与えてくれたと思う。
そして、これこそが「スポーツの力」だと感じ、オリンピック招致の際に流用された「復興」という違和感は、全く感じられなかった。
車掌長もこの1週間、普段では考えられないほど、テレビの前に釘づけとなった。
これまで楽天のファンではなかったが、リーグ優勝を果たし、巨人との対戦が決まってからは、楽天を応援していた。
第1戦から第7戦まで、勝っては奪われ、負けては取り返す、楽天の粘り強い野球に魅了された。
ジャイアンツファンの方々には大変申し訳ないが、楽天の優勝日本一は掛け値なしに喜ばしい。
それは、「中央」ではなく、「オール東北」の底力の勝利でもある。
プロスポーツを支えるには、人口やインフラ基盤が弱く、気候条件も厳しい仙台という場所に本拠地を構え、盤石な財政力を駆使して選手を掻き集めたチームに勝利した意義は計り知れない。
誰もがホームランバッターやエースのようなチームよりも、1人1人が役割を点から線で繋ぎ、結び合わせ、点を積み上げ死守する野球本来の面白さを、楽天は教えてくれた。
そして、大舞台にあっても過剰に萎縮せず、イキイキとプレーする選手の姿に、抑圧された日々の生活に自分自身を重ね合わせて、スカッとする勇気をもらった人もきっと多かったに違いない。
これは野球版「半沢直樹」だ。
田中投手の大リーグへの移籍話も出ているようだが、個人的にはずっと東北のスターであってほしい。
しかしながら、彼自身の野球人生においては、更なる夢や本能的にチャレンジしたい闘志があるだろうから、それを縛ることは誰にもできないであろう。
なにはともあれ、久々にテレビを「見たい」と思わせてくれた、楽天のプレーに感謝したい。
そして、改めて日本一を心から祝いたい。
コメント(2件)
希望者挙手さんからのコメント(2013年11月 8日 00:47投稿)
こんばんは
野球版「半沢直樹」とは、ナットクです!
私は茨城県と宮城県のハーフ(笑)で、親戚の多くが宮城県民ということもあり、東北楽天ゴールデンイーグルスを応援していました。
まさに東北に元気を与えてくれた勝利でした。
創設9年目の、12球団の中では最も苦労や課題を抱えたチームが、セ・リーグでぶっちぎりの優勝をした近年最強と言われたジャイアンツを劇的に破っての日本一ですから、楽天ファンを超えて多くの人の心を打ったのではないでしょうか。
私が少年時代から応援してきた関西の電鉄系球団は創設78年と、日本で二番目に歴史ある球団であるのに日本一は1回だけ。楽天に追いつかれてしまいました。
それどころか、楽天の若手選手を見ていると、抜かれてしまうかも知れないと感じます。
プロ野球チームを超えた組織の強さについて考えさせられる出来事でもありました。
嶋選手が言っていた「誰かのために闘う人間は強い」というメッセージが思い起こされました。
これは、家庭や学校、会社などいろいろな組織に言えることではないかと・・・
私も久しぶりに熱くなりました!
車掌長さんからのコメント(2013年11月 8日 05:06投稿)
希望者挙手 様
毎度ご乗車ありがとうございます
今朝、燃えないゴミを出しに外へ出て空を見上げましたら、狭い夜空の隙間に幾つか星が綺麗に見えました。
そろそろ秋から冬への変わり目を感じました。
「誰かのために闘う人間は強い」、まさにその通りだと思います。
車掌長も、嶋選手の言葉には共鳴するものがありました。
そして、その言葉には魂が入っていると感じます。
「闘う」という語句は、障害や困難に対して用いられます。
一方、「戦う」は競争のように、相手を負かすことで強さを表しているように感じます。
いま、人々の関心や世の中の傾向は、「戦う」ことに気を取られ過ぎではないかと思うのです。
家庭、学校、会社、どこにいても、子どもから大人まで他者との「戦い」を意識させられ、気持ちを休めたり、他者や弱い者を守るという「場」が奪われています。
その戦っている相手とは、よく観察していると、自分だけが「勝ちたい」「勝ち組に属したい」と願う自分自身のようにも映ります。
そして、皆と同じモノを所有し、声高に紹介や提供される圧倒的にボリュームのある、ごく一部のメディアの情報や価値観を鵜呑みにして、自分もその一員だと安心する姿を目にします。
最近、世間を騒がせたホテル・百貨店業界のメニュー偽装も、そんな風潮がボタンの掛け違いの温床だったかもしれません。
また、そうした路線からハミ出たり、脱落すると、社会的に生きてゆけないような脅迫観念に煽(あお)られているとも、流されているとも言えそうです。
しかしながら、そのような戦いで「得られる」ものと、「失ってしまう」ものは何か…と、一旦立ち止まることは大切です。
一度限りの自分の人生…
色々な生き方や行き方を楽しみたいものです。
ただ、最近は自分のためだけに生きるなら、「一生」は長すぎると感じ始めています…
最初の話に戻りますが、まさに、誰かのために「闘って」こそ、自分自身の存在や生きる喜び、日々の糧を得られるのではないか…と感じる昨今です。
それは、仰々しい最上段に構えた物事ではなく、日々の小さな心掛けとその積み重ねを続けることで良いと思うのです。
そんな歩みを始めてみたいと思います。
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