48という数字

カテゴリー:④番線:日々雑感方面 2016年2月19日 04:56

48(四十八)という数字で連想するもの…

「赤目四十八滝」
「無くて七癖有って四十八癖」
「相撲四十八手」
「いろはにほへと四十八音」
etc

なにかと、数が多そうなイメージを抱かせるものが多い。

また、約数の多い数字とも言える。
1、2、3、4、6、8、12、24、48、と多く、扱いやすい数字や親和性の高い数字という印象。

ちょうど1年前、この乗務日誌で「47という数字」を取り上げた。
「47」は素数であり、正の約数が1とそれ自身の数しかなく、どこか唯我独尊的で好きだった。

唯我独尊というと、「傍若無人」や「ジコチュウ」などと、自分ほど偉いものはいないという意味合いが濃く、日本人的感覚では、村八分の対象になりそうだ。

しかしながら、ルールや法律を勝手に解釈し、それこそ傍若無人に振る舞うのは良くないが、個人の思考レベルで色々な解釈ができるのは、言葉の魅力の1つだ。

唯我独尊という言葉も、車掌長はこのように捉えて励みにしている。
「誰か」や「何か」と比較して自分の位置を座標上で確認するのはなく、自分という存在自体が、「無比」であることに「尊さ」があるのだと…

人はとかく、学歴や能力、就業状態、経済力などを自分のモノサシで測りたがってしまう。
これに、自分が生きてゆく上で、いかほどの意味があるのだろう…とつくづく思ってしまう。

そうすることで、安心したり落胆したり一喜一憂するが、それで充足したり欠如したりする「心」の在りようには、生き方としての一貫性が乏しいように思われる。

そういう車掌長も、まだまだ自分のモノサシが寸足らずで貧相であることは否めない。

今日、車掌長のモノサシは1つ目盛が増え、48歳になった。

このモノサシを長さに例えれば、48㎝とも言える。
そして、車掌長が手にする人生のモノサシが、「50㎝」のものなのか、「1m」のものなのかは、生き終えてみないとわからない。

だが、仮に50㎝のものであれば、そろそろその先も測れる長めのモノサシに持ち替えないとならないなぁ…と思う。
逆に、1mのものを手にしているのであれば、その長さに見合った「今の自分」なのか、を再考しなければならない。

つまり、まだ半分以上も人生の時間があると安心し、日々を怠惰に過ごしていないか…と考えてしまう。

いま48個目の目盛が増えたと記したが、振り返ってみると、過去の目盛には剥げ落ちたり、色濃く輝いていたり、いつまでも覚えていたい箇所もあれば、可能なら忘れたい目盛もある…

いずれにせよ、自分の貧弱なモノサシを他人に当て、その人を測るようなことはしないようにしたい。

そして、そのためには、昨年の素数である歳とは違う、約数の多い歳として、色々な価値観を共有できるような考え方や経験値を、広げたり深めることができるよう努力したい。

そんな感慨に耽(ふけ)る、48歳最初の朝であった。
 

コメント(2件)

希望者挙手さんからのコメント(2016年2月20日 02:08投稿)

お誕生日おめでとうございます。

2月19日というおめでたい日に、どんな著名人が生まれたのだろうと興味が湧き、調べてみましたところ、私たちとご縁のある(?)人物を見つけました。

スウェン・ヘディン

およそ100年前に当時地図上の空白地帯と呼ばれたチベット地方の地図を完成させたり、タクラマカン砂漠で彷徨える湖ロブノールや古代都市遺跡の楼蘭を発見したことなどで知られる、20世紀を代表するスウェーデンの探検家です。

専門学校の講師時代、車掌長に「栄光なき天才たち」というマンガコミックを貸してあげたことを覚えてらっしゃいますでしょうか?

トラベル学科の仕事でチベットの話題になった時、私がスウェン・ヘディンの話をした所、車掌長が関心を持たれてそのマンガを読んでみたいとなり、貸してあげました。

そんなスウェン・ヘディンと車掌長が同じ誕生日だったことを発見し、細やかな驚きと喜びを感じた次第です。

私も先日50歳を迎えたわけですが、まだまだ未知なこと、未経験なことがたくさんあります。そんな空白地帯をスウェン・ヘディンの探検のように埋めていく、お互いそんな人生を楽しんでいきましょう!

車掌長さんからのコメント(2016年2月20日 05:39投稿)

希望者挙手 様

毎度ご乗車ありがとうございます

記憶の海の深層に眠るスウェン・ヘディンの糸を手繰り寄せましたが、途中でその糸が切れてしまいました。

大変申し訳ございませんが、希望者挙手さんにお借りしたコミックとスウェン・ヘディンのことが思い出せませんでした。

しかしながら、そのような御方と同じ誕生日だったことを教えていただき、ありがとうございました。

そして、希望者挙手さんが仰る通り、まだまだ「未知」や「未経験」という、人生マップの空白地帯を埋めてゆくような、そんな生き方や楽しみ方を共有できれば大変嬉しいことです。

それにしても、この希望者挙手さんのコメントの結びは秀逸ですネ!
少年時代の冒険心が、再び湧いてくるような気持ちになります。

小学校や中学時代、教科書よりも時刻表の地図を見るのが大好きでした。

時刻表の地図は、鉄道路線やその他交通機関を、限られた誌面に上手に収めなくてはなりませんので、かなり歪(いびつ)な地図になっています。

そして、それら交通機関の途絶える先や空白地帯に、どんな景色が広がっているのか…を、確かめたい気持ちに溢れていました。

もちろん、車の免許もない歳ですから、その好奇心の実現は全て徒歩になります。

当時は、江戸時代に整備された街道に興味があって、旧東海道や旧中山道の一部を独りで歩いたものです。

ヘディンほどダイナミックな冒険はできませんが、その後途絶えた自分自身の好奇心の空白を、再び埋めてみたいと思いました。

48歳という節目に、そんな時間旅行ができましたこと、重ねてお礼申し上げます。

今後も、まだ人が通っていないような人生の道は、きっといくらでもありますから、そんな道(未知)探しを共に歩めれば幸いです。

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