悠久なる世界遺産と地雷の国を訪ねて

カテゴリー:④番線:日々雑感方面 2015年1月29日 04:15

昨日、カンボジアから帰国した。

一般的に"カンボジア"と聞いて連想できるのは、「アンコール・ワット」や「アンコール・トム」といった世界遺産にも登録されている遺跡群だと思う。

そこだけがあまりに突出しすぎて、その国でどんな人々がどのような生活を営み、どんな通貨が使われ、どのようなモノを食べたり、衣服を着用していたりするのか…それは車掌長も行ってみて初めて気が付いた。

先週末から5日間の旅程で訪れたカンボジアは、車掌長がお世話になっている会社の社員旅行。
各社員が毎月2000円を2年間積み立て、あとの費用は会社が負担して下さり隔年で実施している。

行先は経営者の希望だが、「あとはヨロシク!」と企画から手配、添乗までを車掌長と旅行会社勤務経験のある同僚O氏に一任される。

老若男女の参加者9名分のビザ取得手続きや航空券及びホテルの手配と、現地観光を考えながら行程を組み立ててゆく事前の作業は大変楽しかった。

手配を進める中で参加者の希望を叶えるべく、ハプニングや紆余曲折は色々あったが、最終的には、往復バンコク経由のJAL便&LCC(格安航空会社)と、現地では超高級ランクのホテルに宿泊し、全行程をプライベートチャーター車両で日本語ガイドを付けても、旅行会社で販売されているツアーよりも安く収めることができた。

観光においては、カンボジアの「陽」の面である世界遺産の遺跡を巡った。
前述の代表的な2遺跡に加え、「タ・プローム」や「ベンメリア」という、遺跡が長い時間をかけて大木に浸食される姿を目の当たりにしたり、「バンテアイ・スレイ」では繊細かつ優美なレリーフを施した遺跡に魅了された。

一方、「陰」の面においては、カンボジアを訪れるなら知っておかなければならない「地雷」についてもコースに盛り込んだ。

カンボジアはつい30~50年ほど前まで、国内の政情悪化や近隣諸国との紛争に巻き込まれ、激しい戦禍と内戦の末、気の遠くなる数の地雷が、カンボジアの大地の至る所に地表浅く埋められた。

戦争が終わっても、田畑で作業する人や無邪気に遊ぶ子どもたちが大勢、無残に脚や手を失ったり命を落とした悲しい歴史がある。

そんな祖国の姿を見て、自らも戦闘下において一兵士として地雷を埋めたというカンボジア人が、地雷を探しては安全に爆破処理し、地雷で親を失った孤児や手・脚を失った子どもを引き取り育てている男性がいることを知った。

彼の名は「アキ・ラー」。
そして、彼が処理した地雷の一部を展示し、被害に遭った子どもたちのことを知ってもらうために、プライベートで小さな博物館を建て、その入館料や寄付で子どもたちを育てている「地雷博物館」を訪れた。

彼に会うことは留守でできなかったが、見せてもらったVTRの中で、地雷を見つけ爆破処理し、子どもや人々を地雷の恐怖から救うことが、僕の責任であり償いであると語っていた。

これまでに彼がひとりで処理した地雷は3万個とも言われるが、そもそもカンボジアに仕掛けられた地雷は400~600万個以上と推定され、埋設密度が世界一となるそうだ。

そして、これらを安全に処理するのは、ほとんどが手作業となる…

もちろん、カンボジア政府もアキ・ラー氏の奮闘とは別に、世界中から非営利組織等の支援も受けているが、カンボジア全体で毎年処理できる数は年間で4~5万個とのこと。
このペースだと、カンボジアから地雷を撲滅させるには、まだ100年近くはかかるそうだ…

「世界遺産」と「負の遺産」。
世界遺産で世界中から多くの観光客が訪れ、国が経済的にも発展してゆく「陽」の未来。
一方、地雷を安全に処理するために、莫大な時間と費用を要する「陰」の過去。

その両眼で「カンボジア」という国を見つめると、単に物見遊山で訪れて「良かった」では終わらない何かが見えてくる…

滞在最終日、参加者全員で1台ずつ四輪バギーを借り、自ら運転して広大な田畑の広がる凸凹な道を走り、世界遺産で賑わう恩恵が見当たらない農村や集落を訪れた。

砂ぼこりを巻き上げながら通過するバギーの1台1台に、無邪気に手を振る子どもたちの姿をたくさん見かけた。
そして、こんな話をガイドから教わったことを思い出した。

カンボジアにも一応義務教育があるが、農村部ではあまり機能していない…と。

小学校の就学率こそ90%ほどあるが、卒業できるのは半分くらいだという。
理由は、家庭が貧しかったり、子ども自身が働かなければならなかったり、学校まで遠すぎて通えないetc…

また、70年代のポルポト政権下において教育制度は廃止され、学校は破壊、教師は虐殺されるなど、暗黒な時代が今も影響し、学校自体や教師も圧倒的に不足しているそうだ。
だから、1つの学校(校舎)を午前は小学校として、午後は中学校として使っている場合が多いと言う。

この手を振る子どもたちが、学校に通えて字を覚えられるようにならなければ、いくら地雷が埋まっていることを警告する表示や看板があっても、理解できないだろうな…と思ってしまった。

旅行自体は無事に終わった今、皆さんにも喜んでいただけ、まずは任務完了の安堵感はある。
また、車掌長自身にとっては、今後の「生き方」を考える上でも、何か小さなヒントというか、心の機微を見つけられたような…

真夏のような国から真冬の日本に戻った時、不思議と清々しい心持ちを得たように感じた。
今回は、そんな佳き旅だったと思う。

(追伸)
今日がバースデーイヴの方は、世界中に沢山いますが、中でも「哲×鉄」ご愛読の方に心からお祝い申し上げます。
どうぞ佳き一年となりますように…
 

船橋オートレースで新年会

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2015年1月18日 05:12

昨日、希望者挙手さん、戻り鰹さんと新年会を行った。

場所は千葉県船橋市。
選定理由は、船橋オートが来年度で廃止になる見通しと知り、ぜひ行っておこうとなった。

オートレースについては、全く知識も経験も無かったが、希望者挙手さんに楽しみ方やエピソードを教わりながら、いざスタンドへと入った。

近年は売上が低迷しているそうで、確かに来場者も少ない雰囲気は感じられた。
施設も古く、特長のない味気もないコンクリート造りに、照明も蛍光灯ばかりで、いわゆる「昭和オジサン」の溜まり場の様相であった。

また、禁煙・分煙が徹底されてきた今の社会において、ここは「我関せず」…
一応喫煙場所は指定されていたが、どこも紫煙が漂っているような印象であった。

こうしたレトロな情景を車掌長は嫌いではないが、今の若者の心を掴むのは難しいだろう。
まして、女性同士やカップルで訪れたくなるかと問われれば、首を縦に振るのも正直な答えにならない。

こうしてファン層が固定化され、来場者数減少による売り上げの低迷や、施設改修に回す資金も捻出できず、老朽化や耐震化への対応も遅れ、廃止の話しが浮上するのは、船橋オートに限ったことではない。

しかしながら、全国に6箇所しかないオートレース場にあって、しかも、発祥の地である「船橋」が無くなるのは寂しいことだ。

今でこそ、近隣に真新しいマンションが林立し、騒音や環境の問題もありそうだが、もともとこの辺りは何にも無かった土地であり、こうした場所でオートレースならではの爆音を体験できるのは貴重であったと思う。

実際のレースの方は、第9から最終となる第12レースまでを楽しんだ。
車券の購入からレースのあらまし等を、希望者挙手さんにご指南いただき、自分の投票したオートバイを応援する気持ちも高揚した。

また、スタンドのあちこちにいる予想屋のオヤジさんのトークも楽しかった。
最終レースでは、そのオヤジさんオススメの車券を購入し、見事的中!
とは言っても、買ったのは100円分なので、それが390円になったまでのことだが、純粋に嬉しかった。

その後、場所を「ららぽーと」へ移し、戻り鰹さんがセットしてくれた店で乾杯。
専門学校教職員時代の話しに花が咲いた。

戻り鰹さんは今も現役で、もう20年にもなるとのこと。
しかも、20年以上前に希望者挙手さんと学科新設の苦労を共にした、トラベル学科に所属とのことで、希望者挙手さんと冷やかしながらも、楽しい時間旅行のひとときを過ごさせたもらった。

末筆ながら、この場を借りて、今回幹事役の戻り鰹さんには感謝いたします。

また、希望者挙手さんには、大変貴重なモノをお譲りいただいたり、はたまた来月の車掌長のバースデー・プレゼントまでいただき、感謝とサプライズの気持ちでいっぱいです…

どちらも大切に永久保存させていただきます。
ありがとうございました!

次回は、希望者挙手さんのお仕事が一段落する暑気払いとしましょう!
 

コメント(4件)

戻り鰹さんからのコメント(2015年1月18日 21:39投稿)

昨日は楽しい時間をありがとうございました。

人生初のオートレース観戦はとても楽しい経験でした。ただ一度も当てることができなかったので、つくづくギャンブルに向いていないのだと痛感しました。

車掌長さんと希望者挙手さんに出会って20年を越える月日が流れたのですね。昔と変わらないやりとりがあるおかげで、そんなに経過している実感がありません。おそらく、これから何年経っても同じやりとりをするのでしょうね(笑)

お久しぶりにお会いして、少々割腹がよくなり貫禄が出ていた車掌長!体が資本ですからお気をつけください!炭水化物ダイエットがオススメですよ。まずは夕飯だけでもいかがですか?

車掌長さんからのコメント(2015年1月19日 04:58投稿)

戻り鰹 様

このたびは「哲×鉄」ご乗車ありがとうございます

一言で20年と口にすれば、あっという間の時間に思えますが、三者三様に色々あったのだぁ…と、懐かしい話をしていて感じました。

車掌長から見れば、戻り鰹さんのように1つの仕事をやり続けることを尊敬しています。
これは厭(いや)みでもお世辞でもありませんヨ。

戻り鰹さんが仰るように、お互いに健康には注意しましょう。
希望者挙手さんと車掌長は先に次のステージ、50代へ突入しますが、普段の運動が課題だなぁ…と実感です。

しかしながら、通勤や所用で1日最低5㎞は歩いています。
特に、駅ではエスカレーターを使いません。

それは、健康のためでもありますが、あの右空けの悪習で嫌な想いをしたくないから、という理由も大きいです。

何はともあれ、来月は車掌長自身の健康診断があります。
今も成長止まない体重ですが、戻り鰹さんに教わった方法もやってみようか…と。

それでは、久々のご乗車ありがとうございました。
今後も、ぜひ気軽にご乗車いただければ嬉しいです。

まだまだ、戻り鰹さんも子育てに忙しかったり悩ましい時期が続くと思いますが、お互いに何かの一助になれば幸いです。

希望者挙手さんからのコメント(2015年1月20日 00:20投稿)

こんばんは

いやぁ、久しぶりのオートレースはシビレましたね。
しかし車掌長の印象通り、以前の活気はすっかり消えてしまっていたのは寂しかったです。

確かに、このエリアの変貌は目覚ましいですね。
船橋オートレース場のすぐ隣にあった日本最大級の人工スキー場「ザウス」がなくなったのもついこの間のように思えました。

実は船橋オートレース場は、その前身が船橋サーキットというレース場でした。
浮谷東次郎がヨタハチで、生沢徹との激戦の末に奇跡の逆転優勝を遂げたことで知られています。ちなみに浮谷東次郎の実家が船橋市のお隣の市川市にあります。
(実は私、小学生の時に「がむしゃら1500キロ」を読んで以来の東次郎ファンです)

また、新年会の会場となったららぽーとは、前身が船橋ヘルスセンターというレジャー施設でした。子供の頃、何度か行ったことがあります。8時だよ!全員集合もここで時々収録していましたね。
ららぽーとになって間もない頃、ドライブインシアターでも有名でしたね。

ところで、ど根性ガエルの町田先生が「教師生活25年・・・」とよく嘆いていましたが、戻り鰹さんも町田先生のようなベテランの域に入ったのですね。

気が付けば私も間もなく40代最後の歳を迎えます。20年前と変わらない気持ちで過ごしていますが、自重しなければなりませんね(笑

次回は温泉でデトックスですね。


車掌長さんからのコメント(2015年1月20日 04:33投稿)

希望者挙手 様

毎度ご乗車ありがとうございます

いやいや、町田先生までご登場いただくとは、話のホッピング具合がさすが!ですネ。
いま思えば、とっても長閑(のどか)なアニメでしたが、人情に溢れて大好きでした。

ところで、船橋オート界隈は希望者挙手さんが仰るように、その時その時の娯楽の最先端だったのですね。

そういえば、谷津遊園もありましたし、あの辺で海水浴や潮干狩りもできました。

ドライブインシアターも、いまや若年層の運転免許取得が芳しくないと聞いておりますが、当時はまず、車やオートバイの免許を取ることが大人の第一歩と思いましたが、今は何が大人の第一歩なのでしょう…!?

「がむしゃら1500㎞」の本は知りませんでした。
さきほど、少し調べたらとても面白そうな内容ですネ。

中学生が50ccバイクで市川から大阪を往復した(当時は14歳から免許が取れたとのこと)そうで、こういう少年時代の冒険的な経験こそ、「宝」だなぁ…と感じました。

車掌長も初めて独りで兵庫県の宝塚を往復したのが、小学校4年生になる春休み。
独り、まだ太陽が昇らない時間に自宅を出たときの不安と高揚感、大阪駅から阪急梅田駅への乗り換えで、何度も道を尋ねた想い出が、いまだ忘れられません。

いまの時代を過ごすお子さんも、それらの当時とは状況が違うかもしれませんが、「独り」で何かをやってみることの意義は不変だと思います。

長々と綴り恐縮ですが、温泉デトックスはどこに行きましょうか?
戻り鰹さん、行きたい温泉があれば、具体的でも抽象的でもよいので、また後日にリクエストを挙げてください。

ご希望が叶う湯をご案内しますヨ。

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母が娘の命を守ったけんか

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2015年1月16日 04:50

親子ゲンカ、兄弟ゲンカ、夫婦ゲンカ

日常、どこの家庭でも起こっている風景…
そんな喧嘩が、親子の生死を分けたという、悲しい体験を持つ女性の話を目にした。

或る新聞に掲載されていたものだが、阪神・淡路大震災で、お母様(当時33歳)を亡くされた女性(当時6歳)の話を知り、胸の奥が詰まる想いをした。

その女性はいま、風呂あがりにそのお母様と一緒に髪を乾かし合った子どもの頃の想い出から、美容師になる夢を叶えたそうだ。

あの日…
いつもなら一緒に寝ていたのに、震災の前夜は叱られたことに拗(す)ね、ふすま一枚を隔てて別々に寝たとのことであった。

ここまで話して女性は言葉が出なくなった。
母の話になると、どうしても、こうなってしまう…と。

それでも、しばらくの時を空けて女性は当時のことを語り始めた。

2階建ての自宅が倒壊し、「ママ、ママ」と泣きながら何度も何度も叫んでも返事はなかった。
ママが見つからないまま、姉に背負われ、がれきの中を歩くと「助けて!」という叫びが、崩れ落ちた家々のあちこちから聞こえたそうだ。

何日経ったか記憶にないが、対面したママは冷たくなっていて、眼を閉じさせてあげようとしても、硬くてそうしてあげられなかったという。

話しを聞いた記者が尋ねる
そんな辛い日のことを、なぜ話してくれるようになったのか

それは、「私が震災の記憶があるギリギリの世代、やはり忘れてほしくない」という想いが込められていた…

明日、阪神・淡路大震災から20年の節目を迎える。

「節目」と一言で括(くく)ってしまうが、同じ記者の質問に別の男性がこう答えている。
被害に遭われた方々、遺族の方々には「節目」などという、時間の「区切り」はない…と。

車掌長は、何か心の奥の痛みを感じた…
凄惨な天災や災害における「節目」というのは、傍観できる者や第三者が口にできる、区切れる、整理できる「時間」なのだと…

明日も、あの朝がやってくる。
多くの人々が寝たまま亡くなった5時46分という時間が…

尊い命を失われた方々の御冥福をお祈りするとともに、車掌長も該当者であるが、直接被害に遭わなかった者こそが、決して忘れてはならない誓いや意志を確かめる日としなければならない…

この女性が話してくれたように、「忘れない」ことが大切なのだと思う。

そして、あの親子ゲンカはきっと、お母様が娘の命を守ったのだと…車掌長は思った。
 

未年に思う

カテゴリー:④番線:日々雑感方面 2015年1月 9日 04:31

中学1年の春、或るTVドラマの主題歌のフレーズにこんな歌詞があった。

♪おとなしい羊の群れから 飛出したいのだ

これは人気ドラマ金八先生に続いた新八先生こと、岸田智史さんが歌う「重いつばさ」の一節。

1980年4月といえば、車掌長が時刻表を毎月買い始めた時期。
当時は、徐々に高まりつつあった「自我」というものを、自分でも意識し始めた頃でもあり、自然にこの曲や歌詞に深く共感した時でもあった。

羊は英単語において、複数形の存在しない動物として知られている。
理由は、一匹ではなく「群れ」で行動するので、数える対象にならないと聞いたことがある。

なるほど、漢字においても「群」という字には「羊」が入っている…

また、現在朝日新聞で連載されている、夏目漱石の「三四郎」においては、「ストレイ シープ」という言葉が登場する。
これは「stray sheep」、つまり"迷える羊"として、この小説のキーワードになっている。

このように話を進めてしまうと、羊とは何と主体性のない動物かのように囲いこんでしまう。

しかしながら、一方でこの動物は、その群れをなして行動する習性から、「家族の安泰」や「平和」をもたらす縁起物としても、人々から愛されている。

車掌長も今や、こちらの意味合いで「羊」や「未年」を眺めながら、目を細めるようになった。

羊年といえば、車掌長の同級生の多くは「年男」「年女」である。
車掌長は早生まれのため、学年は一緒だが、干支は1つずれて来年が「年男」だ。

干支(えと)はご存知のように12年で一回りするが、細かく言うと「十支(じっかん)」と「十二支(じゅうにし)」の組み合わせで60年周期となり、その一周がいわゆる「還暦」となる。

車掌長の同学年はこれで十二支を4周し、いよいよ5周目、自分たちが生まれた「丁羊」や「戌申」となる"還暦"を視野に見据えた12年間を過ごすこととなる…

しかし、さすがに12年というスパンは長いので、目先の50歳にまず目が向いてしまう。

孔子曰く、「五十にして天命を知る」とのこと。

果たして五十歳になった時、天から与えられた使命を悟れるようになっているのだろうか…

現時点でそのようになれる自信はないが、まずは、いま頭の中で想い描くことを、日々一歩一歩積み上げてゆくことが大切なのだと思う。

それも、最短距離ではなく、さんざん寄り道や回り道、行き止まりを経験してきた人生の教訓として、"急がば回れ"の心持ちで歩んでゆきたい。

 

時刻表

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2015年1月 3日 20:15

中島みゆきさんが、「時刻表」という曲の中でこう歌う。

♪今夜じゅうに行ってこれる海はどこだろう
人の流れの中で そっと時刻表を見上げる

ここで歌われる時刻表は、車掌長の所有する冊子のものとは違うが、共通するものがあるように思われる。
それは、自分自身をどこかへ連れて行ってくれる道先案内人のような存在ではなかろうか…と。

大晦日、久し振りにNHK紅白歌合戦をほぼ全て観た。

それは、出場2回目となる中島みゆきさんを見たかったことが大きな目的であった。
初回は極寒の黒部ダムのトンネル内で、プロジェクトXのテーマ曲である「地上の星」を歌い、とても印象に残っていた。

あれからちょうど干支が一回りした今回は、同じくNHKの連続テレビドラマ「マッサン」で使われている「麦の唄」を歌った。

最近は独りで歌う歌手が本当に少なくなったので、特に中島みゆきさんや、三輪明宏さん、福山雅治さん、松田聖子さんが歌う姿には、感銘を受けるものがあった。

グループで歌う方々を批判するつもりはないが、歌うのか、踊るのか、どちらかにしてもらえれば幸いだ。

ところで、時刻表は過去の時代や出来事を見つめる楽しみもある。
その醍醐味は、今後ゆっくりとこの「哲×鉄」でご紹介したり、皆さんとともに時間旅行を楽しんでゆければ…と考えている。

過去の時代や出来事と言えば、2015年は大きな節目を迎えることが多いことに気付く…
主なものを、ざっと日付順に並べるだけで下記のようになった。

1/17 阪神・淡路大震災から20年
3/20 地下鉄サリン事件から20年
4/25 JR宝塚線脱線事故から10年
8/6  広島原爆投下から70年
8/9  長崎原爆投下から70年
8/12 日航ジャンボ機墜落事故から30年
8/15 終戦から70年

そのどれか1つだけでも、日本人にとって、悲惨かつ甚大な惨禍や事件・事故が、これほど大きな節目を幾つも迎える年も珍しいと思う。

また、見方を変えると、過去のこうした傾向から未来を見据えれば、今年は「何かが起きる!?」と心配してしまう…

もちろん、これは全く科学的ではないが、用心するに越したことはない。

それは、天災や災害への心構えもそうだが、戦争という人災も、身近に迫っているかもしれない…
日本人は「平和ボケ」と言われて久しいが、戦争で不当に利益を得たり、自らの地位を保持する為に戦争をしたい人間は、世界中に少なからず存在することを注意しなければならないだろう。

憲法で自由権と位置づけられる「精神の自由、身体の自由、経済活動の自由」のように、思想や信条、言動や人身の自由、日常生活上の自由、教育の自由、旅の自由etc…を享受できるのは、空気のような「平和」があってこそのもの。

そんな日本にいると軽視しがちな、されがちな、これらの「自由」が、世界を見回すと、いかに困難かつ侵害された人々が多いかは、昨年ノーベル平和賞を受賞したマララさんの言を借りれば容易に想像できるだろう…

さて、そろそろお開きとしたいが、中島みゆきさんの曲には、車掌長も大好きな「ヘッドライト・テールライト」という歌もある。

♪行く先を照らすのは まだ咲かぬ見果てぬ夢
遥か後を照らすのは あどけない夢
ヘッドライト・テールライト
旅は終わらない

車掌長も自身の行く先を照らす前照灯と、歩んだ道をほのかに照らし残す尾灯を大切にしたい…
そして、その歩みのダイヤを記した自身の「時刻表」と共に歩みたい。

そんな年頭の所感を抱いた…

(追伸)

新年あけまして おめでとうございます
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます

哲×鉄はおかげさまで今春4周年。
また、乗務日誌も今回が250回の節目となりました。

有識者や専門家さえ「想定外」と予想を誤る、この混沌とした不透明な世の中を、有意義に生きて心豊かに暮らしてゆくには、「人と同じ」や「長いものに巻かれて」いては実現しないし、それでは1度きりの人生がモッタイナイ、ということに、最近になってようやく気付きました。

乗務日誌は、そんな「気付き」を車掌長自身の備忘録的に綴っているつもりです。

ゆえに、本年も勝手気ままに、想うこと、考えることを綴ってまいりますが、よろしければまた1年間のお付き合いをいただければ幸甚です。

末筆ながら、「哲×鉄」ご愛読の皆様に、幸多き年であることを心からお祈り申し上げます。
 

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