さようなら田子倉駅

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2013年3月31日 08:14

春は別れの季節…と、昨年の今頃も書いた記憶がある。

"さようなら"は、なぜお別れの意味になったのだろう…
語源を辿れば、「左様(さよう)ならば」の"ば"が略され、挨拶になったとある。
意味としては、「そういうことならば」や「では、そういうことで」ということだ。

脱線したが、本題に入ろう。
今春のJRダイヤ改正は、「はやぶさ」の国内最速320㎞/h営業運転や、新車両「スーパーこまち」デビューといった華々しいトピックスで話題を集めた。

一方、引退する車両や合理化でなくなったサービス、人知れず消えた駅もあった。
上越新幹線200系は、ニュース等でも取り上げられたが、JR東海在来線特急での車内販売サービスが無くなったことは、あまり知られていないだろう。

また、ほとんどの人に知られず、かつ、日本人の99.9%以上の人に影響しない駅がひっそりと廃止された。
JR東日本只見線の「田子倉駅」だ。

1日3本の列車が運転される路線(区間)だが、冬季は通過扱いとなる臨時駅だった。
JTB時刻表2月号までは、当該頁に「田子倉駅には平成25年3月30日(土)まで停車しません」の文言があったが、3月号では3/16ダイヤ改正が反映され、駅名が消えていた。

冬季以外の停車期間でも、乗降客が1日あたり1人未満の駅。
周囲に店はおろか、人家が1軒もないロケーション。
合理化を口にすれば、まさに「左様ならば、仕方ない」と言える。

ところで、こんな小駅にも車掌長の想い出が詰まっている。
小学5年の夏休み、この駅がアプローチとなる浅草岳に登るために初訪問。
父の友人夫婦がこの山に登ると聞き、お願いして1人でついて行ったが、車掌長は往路の夜行急行「佐渡」と只見線初乗車が目的であった。

スノーシェードに包まれた駅構内と、階段を昇って地上に出て開けた人気のない殺風景な風景に、強烈な印象を抱いたのを覚えている。
駅舎も一見、倉庫のような外観で、眼の前を通る国道の車からは駅と気付かないかもしれない。
今で言う「秘境駅」の上位にランクインしそうな駅だった。

日常利用する乗降客は確かにいなかったかもしれないが、この駅は浅草岳登山の貴重な最寄駅。
代替となるバス運行もないから、せめて登山シーズンの数か月でも臨時停車してほしかった。

そんなことを綴っていたら、薬師丸ひろ子の歌を思い出した。
♪さよならは別れの言葉じゃなくて 再び出逢うまでの遠い約束…

タイトルとした「さようなら」だが、そんな期待を胸に、これまでの駅としてのお勤めを心から労いたい。
 

鉄道落語

カテゴリー:①番線:鉄道(JR・私鉄)方面 2013年3月27日 19:53

先日、哲×鉄をご愛読いただいているM美大さん(仮称)から、1冊の新書をいただいた。
先週末、東京で桜が満開となった折、突然お誘いした目黒川お花見クルーズでのことだった。

M美大さんは、これにハマってしまったので、ぜひ車掌長にも!とオススメいただいた。
そして、車掌長も見事にそのツボにハマってしまった。

その新書とは、交通新聞社から出された「鉄道落語~東西の噺家4人によるニューウェーブ宣言」なる本。
4人の噺家が、渾身の鉄道ネタ満載の落語を誌上で炸裂!
ついつい、その場面を自分と重ねたり、共感したり…の連続であった。

車掌長は、1両目(トップバッター)の「鉄道戦国絵巻」で早くもノックアウトされて割腹絶倒となった。
しかも、所用で移動中の地下鉄内で読んでいたのだが、夢中になり過ぎて2つ駅を乗り越してしまう有様…

前回の乗務日誌で綴った「行動のアドバンス」のおかげで、アポイントには間に合ったが、想定外の失態に少々焦ってしまった。

他にも「都電物語」や「鉄の男」、「鉄道スナック」、「鉄道親子」も笑わせていただいた。

読了し、鉄道が落語のネタになるのも頷いた。
それは、鉄道がオタクやマニアに限らず、ごく普通の人々の日々の生活と密接に関わっていたり、人生のあらゆる場面に浸透していたり、時には脇役として心憎い演出をしているのだと感じた。

全国に鉄道ファンは、およそ200万人と言われる。
だが、一言で「鉄道ファン」と言っても、その生態系は様々だ。
撮り鉄、乗り鉄、模型鉄、音鉄、時刻表鉄、子鉄、ママ鉄…etc
ちなみに車掌長は乗り鉄&時刻表鉄の世界に生息。

本来、どの「鉄」であっても暗さは否めないが、人に迷惑をかけるような存在ではなかったはず。
しかしながら、昨今は特に「撮り鉄」のマナーが悪いと聞き、残念でならない。
人一倍、鉄道事業者とは紳士的な関係を保たなければ、歓迎されるようなお客にはなれない。

くれぐれも警察にお世話になるような「捕り鉄」にはならないよう、願うばかりだ。

(追伸)
この場を借りて、落語の新たなジャンルを教えていただいたM美大さんに感謝いたします。
ありがとうございました。

今度はぜひ、大阪の繁昌亭に一緒に行ってみましょう。
 

一枚の切符から

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2013年3月24日 09:19

車掌長が小学生の頃、幼心ながらに「旅情」を誘うキャッチフレーズやCMが幾つかあった。

中でも、旧国鉄が旅客増加策として1970年代に打ち出した"一枚の切符から"や"いい日旅立ち"キャンペーンは、今でも心の琴線に触れるフレーズであり名曲だ。

これらのCMをTVで視聴したり、駅のポスターや旅関係の雑誌で目にすると、次の長期休みにどこへ行こう?…と、まんまと広告の術中にハマっては、心をときめかせ時刻表を開いたもの…

ちなみに、上述の"一枚の切符から"キャンペーンの前は、"ディスカバー・ジャパン"というもので、万国博終了後の旅行需要喚起に起用されたキャッチフレーズ。
そして、その時に国鉄提供で放映開始となったのが、長寿TV番組「遠くへ行きたい」だ。

一枚の切符から…なんて良い響きだろう。
手にした切符に「未知な世界」への期待や不安が交錯したり、目的地で待つ人の顔も浮かぶ…

小学生の頃、車掌長が買い求める切符は、自分が立てたプラン(経路)を一筆書きで作成してもらうもので、券面は手書き、運賃計算は手計算(算盤が多かったように思う)であった。
中学以降は、自由気ままな旅を好んだので、周遊券利用が主流となったが、小学生の頃はそこまで行動が成熟していなかったので、予定を「こなす」スタイルであった。

当然、一筆書きのような発券に手間のかかる切符は、当日買えるものではないので、数日前に駅の窓口へ行き、立てたルートをメモにして窓口の駅員に預けた。

すると、窓口の駅員は「作っておくから夕方取りにおいで」とか、「明日になるかもしれないから、できたら電話するよ」などと言ってくれた。
当時は都心近郊の駅でも、こんな長閑なやりとりが存在していた。
(駅員によっては、面倒くさがられたことも多々あったことは事実)

ところで昨日、一枚の切符ならぬ「一枚のICカード」が全国で使えるようになった。
カード表面に行先の印字はなく(除く定期券)、キャラクターや名称をデザイン化した絵柄が多いようだ。
日常の通勤・通学・買物等で使うのだから、それで良いのかもしれない。
そして、多くの人々にとって、今回の相互運用は喜ばしいことに違いない。

ちなみに、車掌長は普段SuicaのようなICカードを使わない。
券売機頭上の路線図で行先の運賃を確かめ、その分だけを切符で購入している。
こうした行為を不便とは思わず、むしろ「行動のアドバンス」だと考えている。

車掌長は仕事のアポイントやプライベートの待ち合わせの際、約束の30分前には到着できるように家を出る。
これは電車の遅れや、忘れ物等、不意や不測な出来事に対応できる時間として確保したいためだ。
もちろん、切符を買う時間も含まれている。
このような行動を習慣づけると、色々な物事がスムーズに運ぶことを経験則として習得できたと自負している。

みんながみんな、全部が全部とは言わないが、ICカードのような便利なものに使い慣れると、金銭管理と時間管理がルーズになると思う。
また、こうしたモノを使うと、何故か「忙(せわ)しい」生活や生き方に、無意識のうちに巻きこまれる気がしてしまう。

鉄道と言えば「切符」と思っている車掌長だが、今や「チケット」という人の方が多いのかもしれない。
それはそれで結構だが、乗車時の「エチケット」も一緒に持ち歩いてもらえれば、みんなが快適に過ごせると思う。
 

拝啓、ご尊父様

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2013年3月21日 21:52

去る3月18日(月)、専務車掌の父上が逝去。
享年72歳。

2月に別の病気で入院し、一通り検査をした際に突如見つかった「小細胞肺がん」は、僅か1ヶ月で父上を不帰の客とした。

18日昼、医師が家族を呼ぶように…との指示を、母上からの連絡で知った専務車掌は、14時過ぎには東海道新幹線に乗っていた。
車掌見習との二人旅…
「どうか、間に合いますように…」と願いながらの旅路は、実際の乗車時間よりも一際長く感じたに違いない。

思えば1月、まだそんな病気のことなど知る由もなき頃
まだ見ぬ車掌見習の顔を見せに専務車掌の実家に出向き、お喰い初めをしたことが親孝行であったと痛感する。

あの時の父上は、車掌長もここ数年見たことのないほど饒舌(じょうぜつ)であった。

18日夕刻、専務車掌は間に合った。
結果として、それが最後の会話となったが、亡くなる前に交わした声や握った手は、時空を超越し何物にも代えがたい尊さがあったことだろう。

18日夜、11時11分。
父上を乗せた銀河鉄道が出発した。

20日の通夜と21日の告別式、惜しんでも惜しみきれない参列者それぞれのお別れと感謝の念は、きっと父上にも届いたことだろう。


拝啓、ご尊父様

車掌長が父上に出逢った時は、既に自分で歩くのが大変でしたね。
思い振り返れば、そんな父上が冬の函館での挙式の際、用意された車椅子を使わずに、専務車掌とヴァージンロードを歩いたお姿には、心打たれる感動がありました。

その力強い歩みとエスコートは、今も車掌長の大切な記憶として刻まれております。

どうぞ、安らかにお眠りください。
そして、どうぞ「哲×鉄」車掌区のメンバーをお見守り願います。

 

コメント(4件)

希望者挙手さんからのコメント(2013年3月21日 23:22投稿)

専務車掌ご尊父様のご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申しあげます。

実は、私の父も3月18日(月)朝4時30分に逝去しました(享年74歳)。
本日(21日)告別式を終えて実家から帰宅したのですが、専務車掌ご尊父様の訃報に触れ、ただただ驚くばかりです。

私の父は、8年前に肺癌で半年の余命宣告を受けながらもこれまで生きてきたデゴイチのような生命力で、ドクターはじめ周囲の人たちを驚かせていたのですが、昨年6月に間質性肺炎を患い、再度の奇跡を願っていましたが、思い届かず旅立ちました。

銚子大橋が開通した時、開通記念だと言って、川幅約1Kmある利根川の河口を泳いで渡り、銚子大橋を歩いて渡って家に帰ったというような、豪快な親父でした。

私の父も一緒に、私たちのことを見守ってくれることでしょう。

たくちゃんさんからのコメント(2013年3月22日 06:21投稿)

専務車掌様はじめ、ご家族の皆様に、謹んでお悔やみ申し上げます。

先般、お三人様にお会いできたのは、
書かれていた「お喰い初め」の後、
入院なさってからだったのでしょうか。

お会いしたのはお二人の結婚式の折でした。
お父様とのヴァージンロード、今もよく覚えています。
車掌長も書かれていましたが、
車椅子を断り、ご自身の足でエスコートされたこと。
専務車掌様への愛情のこもった、粋なお計らいでした。

ご結婚のムービーに入れさせていただきましたが、
専務車掌様・車掌長様、双方のお父様同士が
差し向かいでタバコを吸われている写真がありました。
相方も私も、その写真が大変気に入り、
「これはどうしても使いたい!」
と、エンドロールに入れたことを思い出します。

今は遠い空の上におられるのでしょう。
私のようなものが言うのもどうかと思いますが、
長い間、お疲れ様でした。
そして、お会いでき、すばらしい思い出まで頂戴し、
本当にありがとうございました。

安らかに、お眠りください。

車掌長さんからのコメント(2013年3月22日 06:34投稿)

希望者挙手 様

希望者挙手ご尊父様のご逝去を悼み、謹んでお悔み申し上げます。

車掌長もコメントを拝見し、偶然とはいえ、同じ日に希望者挙手さんのお父上が旅立ったことに驚きを隠せません。

お父上にお会いしたことはありませんでしたが、専門学校勤務時代に希望者挙手さんから、お父上の数々の武勇伝をお聞きしていたので、想像の人物像があります。

銚子大橋も車で渡ったことがありますが、そのエピソードを思い出しました。
日本一の利根川の河口ですから相当な川幅にも関わらず、そこを泳いだことに驚きます。

当時はともかく、今でしたら新聞やワイドショーが駆け付けたことでしょう(笑)

希望者挙手さんのお父上と専務車掌の父上は、当然面識などありませんでしたが、今頃銀河鉄道のボックスシートを相席し、酒盛りをしていることでしょう。

末筆ながら、重ねてお父上のご冥福を心からお祈り申し上げます。

車掌長さんからのコメント(2013年3月22日 21:25投稿)

たくちゃん 様

このたびは、ご丁寧なお悔みのお言葉をいただきありがとうございました。

亡き父上への想い出を語ることや綴ることは、何よりの供養になると思います。

先月、たくちゃんさん&相方様と当方3名がお会いしたのは、医師から余命宣告をいただき、専務車掌と車掌見習が半月ほど帰省するために、車で送り届けた時のことだったのです。

その節は、急だったにも関わらず、ランチをご一緒していただきありがとうございました。

たくちゃんさんも綴って下さいましたが、函館での両家父の煙草のシーンは何とも言えない味わいがあり、車掌長も大好きな1コマです。

作っていただいたムービーは、言うまでもなく我が家の家宝です。改めてお礼申し上げます。

本当にありがとうございました。

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ありがとう新幹線200系

カテゴリー:①番線:鉄道(JR・私鉄)方面 2013年3月15日 05:48

毎春実施されるJRのダイヤ改正。
今回は東北新幹線「はやぶさ」の320㎞/h営業運転開始や、秋田新幹線に「スーパーこまち」デビューなど、華々しいトピックスが注目される。

一方、「昭和の顔」がまた一つ消える寂しさもある。
上越新幹線で活躍していた200系の引退だ。

1982年6月の東北新幹線開通(大宮~盛岡)、同年11月の上越新幹線開通(大宮~新潟)から、30年余の功労であった。

初代東海道新幹線0系譲りの「丸目」「丸鼻」「丸顔」は、車掌長世代にとっては「新幹線といえばこの顔」と言い切れる美顔の象徴だ。

余談だが、車の丸顔も最近は見られなくなってきた。
乗り物の丸顔は不思議と心が和む気がする。
つりあがった目のようなライトやシャープなデザインは、スマートかもしれないが、人懐っこさや人間味がないように思う。

車も人と同様、長年大切に愛したり、使い続けられるような愛嬌があっても良いと感じる。

話を戻そう。
200系車両は、0系で培った技術や装置を駆使し、特に雪国対策を施した床下を覆うカバーは、エアロパーツの趣きであった。
相当の降雪でも時間通り運行される新幹線は、雪国、北国の方々にとっては、頼もしい存在だったに違いない。

車掌長が200系で想い出深いのは、車内放送で各駅到着前に流れた「ふるさとチャイム」だ。
これは開業当初から、1991年の東京駅延伸直前まで使用されていた。

各駅にちなんだ民謡やゆかりの曲が用いられ、東海道新幹線にはない「旅情」を満喫できた。
帰省客にとっては、故郷に帰ってきたことを実感できる瞬間でもあったことだろう。

車掌長は高校生の時に、全駅のふるさとチャイムを収めたカセットテープを買った。
もちろん、今でも聴けるように保存している。
たまにこのテープを聴くと、新幹線にも「旅情」や「長閑さ」があった頃を懐かしむことができる。

今日をもって引退する200系車両に、心からその活躍を労うと共に感謝の意を表したい。