スナバ

カテゴリー:④番線:日々雑感方面 2012年11月 4日 06:33

今朝の某新聞のコラムで面白い件(くだり)があった。

来春、島根県松江市にコーヒーチェーン大手の「スタバ」が出店するそうだが、これにより日本でスタバがない県は鳥取県だけになるという。

そこで、某テレビ局から感想を求められた平井知事の切り返しが名言であった。
「うちには大きなスナバ(砂場)がありますから」と。
これは単なるオヤジギャグでなく、車掌長は拍手喝采の絶賛をしたい。

いまや日本の商業形態は、家電・外食・衣料・ショッピングセンター・ファーストフード等あらゆる分野で大手企業の看板だけが目立つ状況だ。
その戦略として、日本中ある程度の人口があれば絨毯爆撃のように大手が出店し、その空白商圏を無くし全国的シェアを高めることにあるようだ。

これは数によるシェアを高め、本社的に有利な仕入れや物流コストの効率&合理化というメリットがあるようだが、車掌長はこうした傾向が、日本中どこへ行っても綺麗だが無表情な街を製造してしまったようで嘆かわしく思う。

また、何より罪深いのは地域経済を破壊し、採算が取れなければあっさりと撤退する無責任さにある。
大手企業の出店により、ほんのひと時の雇用の増加はあっても、元来その土地にあった個人の営みが生み出す商店街の賑わいは、一度破壊されれば再生は非常に困難だ。
特にその街の文化の窓であったはずの本屋さんが、すごい勢いで失われているのは危機的状況だ。

もともと地元の商店街というのは、歩きや自転車で用が足りる商圏であった。
そこで暮らす人々が、日常生活で必要とする物のほとんどを調達できたはずだ。

しかしながら、いまや畑や田んぼの中、或いは以前あった工場跡地に忽然と現れる不夜城のようなハコモノに、人々は呼び寄せられる。
遠くから車を走らせ、巨大な駐車場に向かって渋滞をつくり、日本中で同じ味や服を消費し、家族や友人と訪れても互いに携帯やスマホと向き合っている光景は異様だと感じる。

日本人の娯楽や文化とは、こうして与えられた仕組みの中で謳歌するのが現実の姿なのか…と言えば言い過ぎだろうか?

もちろん、誤解を恐れずに言えば、例えば車掌長のような趣味や嗜好が全て良いとか理想だと言っているのではない。
また、携帯やスマホが便利な道具であり、仕事に欠かせない方々や趣味や交流の新たな楽しみを広げたと喜びを感じる人の方が多いのも事実だ。
そして、話を戻せば鳥取県の人々も、スタバが来てほしいと願う人が沢山いるのは間違いないだろう。

ただ、物事の考え方や心の在り方として、便利さや快適さ、新しさを求め過ぎではないかと…
それにより人々は、己の快適な環境だけを欲するがゆえ、欲求をコントロールする大切さを忘れてしまった。
更に、欲求を邪魔する他者は排除し、寛容ではなくなってしまった。

携帯やスマホの情報速度は日々速くなり続けても、常に動作が遅いとイライラする人々…
便利なはずの道具が、人々の気持ちを荒げている。
一体、世の中の多くの人はいつ気持ちが休まっているのだろうか。

鳥取県にはスタバはなくとも、日本一の砂丘がある。
また、若桜鉄道ではSL運転復活に向けた動きもある。
全国どこにでもあるものが無いことを嘆くより、鳥取県だけに有るものを誇りに感じた方が心の豊かさは大きい。

そして、日本中でわが県、わが町、わが村にしかない物や歴史、文化、人情を大切にしたり、誇りに思えることの延長に郷土愛や愛国心があるのだと思う。
 

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