どこにいだの みんなまってるよ!
カテゴリー:④番線:日々雑感方面 2014年9月13日 05:28
「みなさんは いま そういう場所に立っているんです」
大槌町の旧役場庁舎の玄関前、黙祷を捧げた後に、語り部ガイドの東梅さんがそう切り出した。
庁舎の時計は、津波に襲われた時刻を指したまま…
そこから、町の時間も止まったまま…
8月下旬、母の看護学校時代の同窓旅行を企画・手配・添乗し、青森や岩手を訪れた。
その際、通常の観光以外に、東日本大震災で被災した地域を訪ねたいと考えた。
それは、震災から3年半が経過し、自分自身も含めた社会全体に、「あの日」の記憶が薄らいだり、風化しつつある懸念や危機感があったことに他ならなかった。
計画当初は、車で被災地を回り、今も生々しく時を止めた遺構を見るだけでも、「何か」を感じられるとプランニングをしていた。
だが、それでいいのか…?と、違和感を抱くようになった。
そして、更に下調べをしてゆく中で、被災した町民の方が語り部となり、「あの日」を自身の言葉で案内してくれる団体の存在を知った。
それが、「一般社団法人おらが大槌夢広場」であった。
早速、当方の訪問日時を伝え、ガイドの申し込みを希望した。
東梅さんは、高校の卒業時に「あの日」に遭ったそうだ。
あれから、3年余りの時間が過ぎて21~22歳の青年になるが、彼の一言一句は、頭頂部から足の指の爪先までズドンと落ち響く「言霊」であった。
どの場所に立っても、彼が繰り返し話してくれたことは、「自分の命は自分で守る」、「日頃から大切な人を大事にする」ということであった。
いま大槌町は復興に向けた工事が進められ、ダンプカーが忙しく土砂を運んでいた。
旧役場庁舎も、一部が保存されるそうだが、解体に向けた足場が架けられようとしていた。
こうした遺構の1つ1つの保存についても、町民の間で何度も議論されたが、賛否はほぼ半々。
1人1人にとって、「忘れてはならない時間」と、「忘れたい時間」があり、特に後者の方々にとっては、見るとどうしても思い出して辛くなるという心情が強いとのことだった。
また、町全体が嵩(かさ)上げされてゆく中で、消えつつあるものを東梅さんは案内してくれた。
旧庁舎から歩いて3分ほどの場所、ここはかつて町の中心部で多くの商店や家屋があったという。
いまはそれらがあったことを、辛うじてうかがい知ることができる、コンクリートの基礎部分があった。
そして、ある御宅の基礎が残る歩道部分には、このような文字が遺されていた。
「どこにいだの みんなまってるよ!」
"どこにいだの"は、どこにいるの?という、この土地の言葉…
青いペンキで書かれたこの文字は、津波で離れ離れになった家族が、自宅のあった場所に必ず戻ってくる、戻ってきてほしいという願いを込めた、命や絆を繋ぎとめたる文字であった。
「いま みなさんは そうした場所に 立っているのです」
「みなさんが それぞれ ここで何かを 感じてください」
「そして その感じたものを いつまでも 大切にしてください」
東梅さんは、再びそう話してくれた。
続けて、この文字もやがて嵩上げ工事に伴い、なくなります…と。
一方、大槌町住民の中には、私どものように被災箇所をガイドする姿を、快く思っていない人も少なくないと説明してくれた。
それは、「見せ物じゃない」という、強い意識。
しかしながら、東梅さんは、自分も当初はそう思っていたが、大槌町が本当の意味で復興できるのは、この大震災で多くの尊い命と引き換えに得た教訓を、自分たちが他の人々に伝えることだと悟り、この職業に就いたと話してくれた。
多くの人々の命や平穏な暮らしを奪った甚大な災害で、後世に伝えるべき反省や教訓、戒めは何であったのか…
テレビや新聞の画像、字面(じづら)だけでは、わからない、伝わりきらない、「何か」が、車掌長の胸に落ちた。
末筆ながら、東梅さんに心からお礼申し上げます。
ありがとうございました