残された時間

カテゴリー:⑤番線:feel the season方面 2015年12月31日 05:55

今朝の某新聞の折り込み広告を見て苦笑した
またおかしな時代がやってきたなぁ…と。

それは某老舗百貨店の初売りの目玉に位置付ける「福袋」ならぬ「夢袋」。
新年にあやかった百万、千万、億単位の金額が並び、パッと見ていくらかわからないほど。
「夢」とはお金で「買うもの」「買えるもの」という、メッセージのようだった。

車掌長は、お金で買う「夢」があったり、それを売買する人々も否定しない。
ただ、お金で結びついた方々のご縁なのだと思うだけだ。
せめて、金の切れ目が縁の切れ目にならぬことをお祈りするばかりだ…

そんな夢袋の話に関連するのかもしれないが、昨日の株式市場の大納会で、終値が4年連続で上昇したそうだ。
それは、数字上は確かにそうなのかもしれない。

だが、その数字はどれだけの人が、自身の実生活や身の回りの事柄で、いかほどに実感できたり、享受できたのだろうか…と、こちらの方が気になった。

車掌長自身も株を保有するでもなく、この数字を実感できる良い影響は思い当たらなかった。
ただ、一部で潤った業種業界やその大企業で働く方々にとっては、良い年であったのだろう。

そんな大晦日の朝、今年もあと18時間ほどで幕を閉じる。

今年中にやっておかなければならないことはないか…
残された時間は少ない。

しかしながら、その残された時間に焦燥感はない…

むしろ、その残り少ない時間を、最後にあれもこれも…と押し詰めるより、色々な出来事があったことを思い出したり、この年に出逢った人を振り返える時間に充てたい気がする。

車掌長自身の出来事
車掌区全体のこと
親・兄妹のこと
友人・知人のこと
仕事のこと
日本社会のこと
国際社会のこと

日常、これらはさほど深刻に考える余裕もなく、気にしつつも時間だけが過ぎ去る感は否めない。

しかしながら、これらの事柄、間柄において、自分の存在はどの辺にあるのか?…という、座標上の位置を知っておくことは大切だ。

その際、座標の原点や軸は何を重視するかで、自分の存在する点の位置は、ことごとく変わる。

世の中は不変でない。
普遍でもないし、不偏でもありえない。

冒頭の見かけの景気の良さも、どれほど続くものなのか、専門家も予想はできても保証はしない。
予想が外れても、「想定外」という免罪符があるから何の責任もない。

ただ、1つ言えそうなことは、自分の人生には規模の大小を問わず何か「夢」を持っていた方が、心持ちを豊かに暮らせるのではないか…ということ。

それは、世の中全体の空気や流行に自分を合わせ、取り急ぎや間に合わせ的に見つける夢ではなく、自分で探し発見する「宝探し」のようなイメージが近いかもしれない。

もしかしたら、その探す時間だけで人生のタイムオーバーになる可能性も、あるかもしれない。
だが、そのために費やした「時間」そのものが、実は楽しかったり、充足感があるのだろう…
そして、それこそがお金で買えない「夢」なのだと考える。

ふと、我に振り返えると、今年ならぬ人生の「残り時間」が気になってきた。

年が明けると48歳。
まだこれから訪れる年だが、「申年」に想いを馳せる。

人生のクロノグラフは、大きな針が1週して還暦を迎えるまでに五分の四の時間が経ったことを指し示している。
一方、同一の動力源を持つ12年で1週する別の時計は、既に4週目を終えようとしている。

クロノグラフとは、1つの時計の中で、ストップウオッチのように別の時間軸を表示できるもの。
人は誰しも幾つかの時間軸を持ちながら、それを無意識に過ごしているが、どれも固有な自分の1つの時間であることに変わりはない。

秒、分、時、日単位で時を刻むつつ、気が付けば1年、5年、10年という、大きな時間が経ったことに気付く。

一日、一日を大切にする心持ちは、きっと、その大きな固まりとなる時間の蓄積にも、かけがえのない何かを生み出すのだと思う。

「残された時間」というお題で、色々と話が広がりまとまりがなくなってしまったが、時間を大切にしたいという結論で落ち着きそうだ。


最後になりますが、今年も「哲×鉄」ご愛読の皆様には、心より御礼申し上げます。
いつも勝手きままなことを独断的に綴っておりますが、こんな内容がお嫌いでなければ、ぜひ来年もご乗車(ご覧)のほどよろしくお願いいたします。

どうぞ皆様におかれましても、来年が佳き年となりますようにお祈り申し上げます。

 

 

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