50歳を迎える年頭にあたり

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2018年1月 1日 05:40

二十歳に綴った日記を久々に開いてみた。
1月の冒頭、こんな言葉が目に飛び込んだ。

山本有三はいふ
"たったひとりしかない自分を、
たった一度しかない一生を、
ほんとうに生かさなかったら、
人間に生まれてきたかいがないではないか。"

当時、学生だった車掌長はこの言葉に出逢い、胸に心地良く落ちる言魂を感じた。

車掌長は一人旅が好きだ。
小学1年に時刻表の使い方を知り、同2年から一人で旅に出るようになった。

当初、傍から見れば「旅」とは形容できないものだった。
自宅最寄駅からオレンジ色の国電で数駅先に行って戻ってくる…そんなものだった。

しかしながら、その緊張感や未知な空間にいる自身の存在に興奮した。

やがて、その距離は回を重ねるごとに延び、大方の目的地は母の実家がある関西となった。
最初は新幹線で行ったが、夜行列車に乗ったり、一筆書きで遠回りをしたり…

そんな旅を繰り返しているうちに、車窓の風景や見知らぬ土地に行く楽しみを覚えた。
また、有り余る列車の中での時間に、自分と向き合うことを知った。

減光もされない鈍行の夜行列車の窓には、その時々の自分の顔が映った。
そのもう一人の自分を、好きなときもあれば、嫌悪するときもあった…

窓に映る自分とは…
つまるところ、己の心を投影していたことに気付くのに、そう時間を要さなかった。

年が明け、間もなく五十歳を迎えようとしている。

また、元号が平成になった頃に綴り始めた日記を目にし、その元号も変わることが決まった。
「平成」という時代は、自分にとってどのような"時間の集積"だったのか、省みたい。

モノが溢れ安く手に入り、世の中が便利になったようで、それを自分自身が享受する背景に、他人の時間が犠牲になっている装置や仕組みの存在を知った。

何より、自身もその仕組みの中で足掻いているのを知った。

更に、同様に溢れるモノや情報に囲まれ、埋もれる日常生活には、選択肢が多くなった気もするが、多すぎて「決められない」、「決めるのが面倒くさい」と感じてしまう自身の存在も知った。

だが、溢れているように錯覚する選択肢も、消費至上主義の経済社会の中で、効率性や合理化によって生成され、真にオモシロイものが非常に減った気がする。

そして、そのオモシロクナイものに「モノづくり神話」のヴェールをかけて消費者を欺き、実態はコスト・効率重視、現場軽視という裏の社是が横行し、組織ぐるみで手抜きをしていた大企業や、安全神話に胡坐(あぐら)をかき、定時運行至上主義を優先させたという疑念を持たれても否めないような、新幹線を有する鉄道会社の存在も明るみになった。

そもそも、「選択肢」とは他者によって自身の目の前にズラリと並べられるものではなく、自分自身が探し出したせいぜい2~3個ほどの中から、本命と思うチョイスをするのが、自分には合っていると気が付いた。

そして、そのために必要なものは、「自分に向き合う時間」であることを再認識した…

どんなに忙しい時間の中でも、そんな時間を確保することが、大切なのだ…と。

働き方改革が叫ばれているが、それは他人や行政任せではいけない。
それは、言い換えれば自分自身の「生き方改革」なのだから…

その改革、マイ・レボリューションを意識した時、支えになるのは冒頭の言魂だ。
たった一度の人生を、ほんとうに生かすとは…

ただ、その正解は恐らくスマホやSNSは教えてくれないだろう。
また、暇潰しで眺めているだけの画面なら、時間の浪費と言っても差し支えないだろう。

その正解は、誤解を恐れず言えば、他者と自身とを比較したり、天秤にかけてどちらが優っているかとか、劣っているかなどという、狭隘(きょうあい)な見地ではなく、自分自身の心と向き合う中でしか、得られないのではないか…と思う。

不特定多数の人と瞬時につながる世にあって、「孤独」を恐れない方がいい…

車掌長自身は、自分の知らない人との繋がりよりも、孤独であることに喜びを感じる。
本当に繋がるべき他者とは、不思議と「縁」があって、どこかで出逢えるもの…

ただ、「孤独」とは他者と心を閉ざす意味ではない。
自身の心中に大切にしておく境地であり、そこから救われたり、癒された「自分」が幸せであったなら、他者にも微力ながら役に立てる結果を生み出すのだと思う。

五十歳を迎える元旦にあたり、勝手なことを綴り並べてみた。

かような乗務日誌を読んでくださる方々におかれても、どうぞよい年となりますように…

 

 

コメントお待ちしてます!

コメントはこちらからお願いします

名前

電子メール

コメント