区切りなるも、時は連なり...
カテゴリー:④番線:日々雑感方面 2019年4月30日 21:21
世の中は改元を迎え、賑々しい…
それは、確かに日本社会においては、ひとつの時代の区切りなのであろう。
しかしながら、和暦も西暦も、その他世界に存在する独自の暦もそうだが…
ひとつ言えることは、本来「時間の流れ」には区切りなど無い…ということ。
あるのは、人の意識や記憶の整理、世の中の動き、流れにとって便宜があるということ。
つまり、暦は人間にとって、都合が良いのであろう…
「宇宙」は誕生したものなのか、元々あったものなのか…?
では、「元々」の起源はいつだったのだろうか…
「時間」とは、人間の想像を超越した、何か凄い場所に存在するような…
そんな想いがしてならない。
しかしながら、現実には、人は忙しく暮らし、「時間」をあたかも自身が管理しているように、日々を過ごしている。
起きる時間、仕事に学校に出かける時間、家に帰る時間、食事をする時間、寝る時間etc…
誰もが平等に、1日24時間という「時間」を持ち得ながらも、一人として、一つとして同じ人生や結果が無いという不思議さや面白さ…
そんなことを、子どもの頃から漠然と思っていた。
それは、振り返ると、早く「自立」をせざるを得なかった、否、した方が自分自身が楽だった半生であったように、50歳を過ぎたいま、静かに思う…
今春、車掌見習が小学校へ入学したが、車掌長が同じ頃、家は心休まる場所では無かった。
そして、そんな場所から自分を外の世界へ連れ出してくれたのが、「時刻表」であった。
時代が区切られても、ひとりの個人の時間は「連なり」であることに変わりはない。
あえて、新たな元号に想いを寄せるなら、リセットの意味合いではなく、
平成と令和の一文字ずつを合わせた連なりとして、「平和」な世の中であってほしいと願う…
これ以上の、他人の時間の犠牲の上に得られるような、過剰な便利さやサービス、
或いは、生身の人間が付いてゆけないような、飛躍的なテクノロジーの進化よりも…
一枚一枚の紙を重ねてゆくような、地味な日々の営みの成果として、
ささやかな厚みの幸せがあるのかもしれない…