大人の階段

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2020年1月22日 04:58

先般、「大人エレベーター」について綴り、ふと、思った。

エレベーターで昇るのは、ずいぶん「楽」してないか…と。
大人になるための精進や鍛錬、苦行は、「階段」が相応(ふさわ)しいのではないか…と。

学生時代、中学時代の親友と四国を一周したことがある。
その際、初めて讃岐の「こんぴらさん」を参拝したとき、長い階段をお年寄りが駕籠に乗ってラクチンの様子で上がってゆく光景を見た。

そのとき、「いつかはクラウン」ではないが、「いつかは駕籠で」でなどと、若気の至りで短絡的に思ったものだった。

ちなみに、この駕籠、今月末(2020年1月末)を以って、唯一残っていた業者が、後継者がおらず営業を終了するそうだ。

「いつかは駕籠で」の憧れは叶わなくなった…
次回参拝時も、やはり自力で上がることになるが、息を切らしながらも、元気や健康であることを噛みしめながら、感謝の念をもってひとつひとつの階段を踏みしめられたら、本望だと思えるようになった。

話が脱線したが、申し上げたかったのは、こんぴらさんの階段が「大人の階段」ではない。
人生を全うに生きれば、老後のご褒美として、お金も必要だがそんな「楽ができる」選択肢もあることを知ったにすぎない。

一方、「大人の階段」ですぐさま連想してしまうのは、「想い出がいっぱい」の曲。

♪大人の階段のぼる 君はまだシンデレラさ
 幸せは誰かがきっと 運んでくれると信じてるね

車掌長も高校時代によく観た、TVアニメ「みゆき」の主題歌としてヒットしたが、今も歌い継がれる名曲であり、大好きな曲である。

さて、車掌長もそろそろ出勤準備に取り掛かればならない時刻となった。
話をまとめよう。

つまるところ、大人になるため、或いはそれを確認する手段は、エレベーターであっても階段であっても良いのだが、大切なことは、「大人」とは外見ではなく、内面、中身だということではないだろうか。

ここでいう外見とは、文字通り、他人が目にする容姿や見た目、鏡に映る自身もそうだが、一方で、所属する会社や組織における立場や地位など、世間体を気にすることも「外見」だと、車掌長は捉えている。

ただ、外見とは、それを気にするあまり、自身をちっぽけな存在に陥れてしまうものでもある。

それよりも、生涯の不変的な自身の糧になるような、内面・中身を精進させることの方が、やがて終わりを迎えるサラリーマン人生以降の、肩書や役職が何ら意味を持たない、「素の自分」で歩む第二の人生を豊かにできるように思う。

図らずも、堅苦しい話になってしまった。
ここで締めくくりと思ったら、末筆ながら、突如タキシードを着たウサギが現れ、「時間の国のアリス」の曲をウサギが口ずさみ去っていった…

♪誰だって 大人にはなりたくないよ
 永遠の少年のあなたがいうの

車掌長も戯言を綴りつつも、まだまだ大人の階段の「踊り場」にいるようだ。


 

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