足るを知る
カテゴリー:④番線:日々雑感方面 2020年1月 8日 05:52
先日、急遽風呂場のリモートパネルの電源が入らなくなり、不具合に陥った。
風呂をわかしたり、湯温や湯量調節が風呂場でできる便利なものだったが、その便利さを意識もせず、「あたりまえ」に日常使っていた。
いざ、使えなくなると、途端に「不便さ」を痛感した。
台所にも同じ別のパネルがあり、ここでも風呂で使う湯の諸調整ができるのだが、入浴中に大声を出して専務車掌を呼び、その操作をお願いするのも気が引ける…
したがって、入浴前にあらかじめ使う湯の温度を台所で設定してから、風呂での湯を使うわけだが、車掌見習と一緒に入ると、シャワーの湯温は41~42度が適温のようだが、熱めのシャワーが好きな車掌長は43度はほしいところ…
若干熱めにしたかったり、その逆を適宜操作できず、不便は不便であった。
そんなとき、湯舟に浸かりながら思ったことがある。
「足るを知る」という言葉…
時折、意識的にその言葉を思い出したり、大切にしている心構えのつもりでいたが、最近は失念しかけていたようだ…
無いもの、足りないものを嘆くのではなく、現状有るものや足りていることに、満足や感謝をするように理解しているが、「足りていることがあたりまえ」に思っていたフシは強くなかっただろうか…
それにしても、「足りる」「足らない」という漢字は、なぜ「足」なのだろう?と素朴な疑問も抱く。
「満足」「充足」「過不足」「自給自足」etc
これは、車掌長の持論に過ぎないが、「足」とは歩くための身体機能と捉えれば、何かの目的に向かって「歩く」、言い換えれば努力することのボリュームや熱量に対し、自身の満足度や不足度を感じるのではないか…と、勝手ながら位置づけている。
先人は「千里の道も一歩から」とか、「百里を行く者は九十を半ばとす」とか、車掌長の好きな言葉を残してくれているが、どれも自身の「足」で踏み出さなければ、始まらない。
日常、うんざりするほど煩雑な物事をこなす中で、自身の楽しみや人生の目標に向かって歩くことは、「足るを知る」こととセットにすることで、その長い道のりを無理なく完歩できるのかもしれない…
ちなみに、昨晩、これまた急遽、風呂のリモートパネルが3日ぶりに復旧…
振り回されることも、「足る」を実感する醍醐味に思えた。


