秋一番

カテゴリー:⑤番線:feel the season方面 2016年10月11日 05:29

今朝は冷えたな…と、目覚めの感想。

「秋一番だな」、などと心の中で呟いてみる。
昨晩、専務車掌が明日は冷えるからと、厚手の寝巻にするよう促されたのが幸いだった。

新聞休刊日なので、TVで朝のニュースを見ると、天気予報の気温分布図も冬バージョンに変わっていた。
北海道辺りは一桁台の最低気温が並び、初冠雪の便りが届いてるようだ。

つい先週、10月に真夏日を記録し、季節感がないな…と思っていたが、日本も夏か冬かの極端な気候になりつつあるように思う。

その中間にあった春や秋が年々短く、否、春や秋を感じられる日が無くなってしまった。

穏やかな天候や気候をもたらすその二季は、人々の気持ちも和ませてくれていたように思う。

いまは、季節も世相を反映してか、0か1か、黒か白か…と、ハッキリしつつある。
それは、季節に限らず、世の人々の言動や思考にも表れているようだ。

それらは、ときに、仕事でも私生活でも、合理的でありラクだったりする。
どちらかハッキリさせた方が、物事を進めやすいことも否めない。

しかしながら、春や秋のように、両極端な季節の中間となる、緩衝的な心持ちのある人は、人間としての厚みや生きてきた年輪の大きさ、面白さを感じてしまう…

そんな人に稀に出逢うと、自分もそうでありたいなぁ…と自省してしまう。

地球的異常気象や激変の世界情勢の時代を生きつつも、春や秋のような感受性や心持ちを大切にしていたい、と思った今朝の冷え込みであった。

ごくごく限られた人はご存知だが、車掌長も今年の6月から仕事のスタイルが激変し、心の余裕をどこかに置き忘れてきた感があった。

それは、乗務日誌を綴る回数に如実に現れている…

最近、ようやくそのリズムに、体も心も慣れてきたように思う。

そういえば、今年はオリンピックがあったにも関わらず、冬に大風邪をひかなかった。
4年に一度、きまってオリンピック開催年の冬に、40度を超すような熱を出す風邪を患い、「あぁ、オリンピックが来るな…」などと、自分にしかない独特な感慨を、20年近く持ち合わせていた。

言い換えれば、それ以外は滅多に風邪をひかない体だった。

今年は4年に1度のイベント的大熱を出していないのも、異常気象ならぬ、異常体調の現れか…

末筆ながら、今年は久しぶりに10月10日が「体育の日」だった。
昭和が体に沁みこんだ人間にとっては、なんとなく落ち着く祝日であった。

 

 

残された時間

カテゴリー:⑤番線:feel the season方面 2015年12月31日 05:55

今朝の某新聞の折り込み広告を見て苦笑した
またおかしな時代がやってきたなぁ…と。

それは某老舗百貨店の初売りの目玉に位置付ける「福袋」ならぬ「夢袋」。
新年にあやかった百万、千万、億単位の金額が並び、パッと見ていくらかわからないほど。
「夢」とはお金で「買うもの」「買えるもの」という、メッセージのようだった。

車掌長は、お金で買う「夢」があったり、それを売買する人々も否定しない。
ただ、お金で結びついた方々のご縁なのだと思うだけだ。
せめて、金の切れ目が縁の切れ目にならぬことをお祈りするばかりだ…

そんな夢袋の話に関連するのかもしれないが、昨日の株式市場の大納会で、終値が4年連続で上昇したそうだ。
それは、数字上は確かにそうなのかもしれない。

だが、その数字はどれだけの人が、自身の実生活や身の回りの事柄で、いかほどに実感できたり、享受できたのだろうか…と、こちらの方が気になった。

車掌長自身も株を保有するでもなく、この数字を実感できる良い影響は思い当たらなかった。
ただ、一部で潤った業種業界やその大企業で働く方々にとっては、良い年であったのだろう。

そんな大晦日の朝、今年もあと18時間ほどで幕を閉じる。

今年中にやっておかなければならないことはないか…
残された時間は少ない。

しかしながら、その残された時間に焦燥感はない…

むしろ、その残り少ない時間を、最後にあれもこれも…と押し詰めるより、色々な出来事があったことを思い出したり、この年に出逢った人を振り返える時間に充てたい気がする。

車掌長自身の出来事
車掌区全体のこと
親・兄妹のこと
友人・知人のこと
仕事のこと
日本社会のこと
国際社会のこと

日常、これらはさほど深刻に考える余裕もなく、気にしつつも時間だけが過ぎ去る感は否めない。

しかしながら、これらの事柄、間柄において、自分の存在はどの辺にあるのか?…という、座標上の位置を知っておくことは大切だ。

その際、座標の原点や軸は何を重視するかで、自分の存在する点の位置は、ことごとく変わる。

世の中は不変でない。
普遍でもないし、不偏でもありえない。

冒頭の見かけの景気の良さも、どれほど続くものなのか、専門家も予想はできても保証はしない。
予想が外れても、「想定外」という免罪符があるから何の責任もない。

ただ、1つ言えそうなことは、自分の人生には規模の大小を問わず何か「夢」を持っていた方が、心持ちを豊かに暮らせるのではないか…ということ。

それは、世の中全体の空気や流行に自分を合わせ、取り急ぎや間に合わせ的に見つける夢ではなく、自分で探し発見する「宝探し」のようなイメージが近いかもしれない。

もしかしたら、その探す時間だけで人生のタイムオーバーになる可能性も、あるかもしれない。
だが、そのために費やした「時間」そのものが、実は楽しかったり、充足感があるのだろう…
そして、それこそがお金で買えない「夢」なのだと考える。

ふと、我に振り返えると、今年ならぬ人生の「残り時間」が気になってきた。

年が明けると48歳。
まだこれから訪れる年だが、「申年」に想いを馳せる。

人生のクロノグラフは、大きな針が1週して還暦を迎えるまでに五分の四の時間が経ったことを指し示している。
一方、同一の動力源を持つ12年で1週する別の時計は、既に4週目を終えようとしている。

クロノグラフとは、1つの時計の中で、ストップウオッチのように別の時間軸を表示できるもの。
人は誰しも幾つかの時間軸を持ちながら、それを無意識に過ごしているが、どれも固有な自分の1つの時間であることに変わりはない。

秒、分、時、日単位で時を刻むつつ、気が付けば1年、5年、10年という、大きな時間が経ったことに気付く。

一日、一日を大切にする心持ちは、きっと、その大きな固まりとなる時間の蓄積にも、かけがえのない何かを生み出すのだと思う。

「残された時間」というお題で、色々と話が広がりまとまりがなくなってしまったが、時間を大切にしたいという結論で落ち着きそうだ。


最後になりますが、今年も「哲×鉄」ご愛読の皆様には、心より御礼申し上げます。
いつも勝手きままなことを独断的に綴っておりますが、こんな内容がお嫌いでなければ、ぜひ来年もご乗車(ご覧)のほどよろしくお願いいたします。

どうぞ皆様におかれましても、来年が佳き年となりますようにお祈り申し上げます。

 

 

アンパンマン三昧(哲×鉄車掌区慰安旅行)

カテゴリー:⑤番線:feel the season方面 2015年8月14日 15:19

16時過ぎ、ピースフルセレネに到着。

玄関の自動ドアが開くや否や、車掌見習はフロントに駆け寄った。
そこには、自分よりも大きなアンパンマンのぬいぐるみが座っていたからだ。

フロントでチェックインする際、龍馬パスポートを提示したら、予約した宿泊料金から更に10%引きとなった。
しかも、支払の一部は高知家プレミアム旅行券の宿泊券2枚(5,000円×2名分)を充当。
かなりお得に宿泊できたことになる。

今日は朝から、車掌見習にとってサプライズの連続だが、フィナーレは「アンパンマンルーム」!
部屋に入ると、ベッドのヘッドボードから寝具、カーペットに至るまで、アンパンマンと仲間たちがお出迎えしてくれた。

車掌見習はそれら1つ1つを見て楽しみながら、ニコニコしてくれた。
その満面の笑みで車掌長の疲れも吹き飛び、時間をかけて準備した手配も報われる想いがした。

そういえば、神戸のアンパンマンミュージアムとタイアップして、ホテルオークラ神戸にもアンパンマンルームがあるが、こちらは元スィートルームがベースになっており、居住空間に優れているだけでなくミュージアムの続きのようなインテリアも話題を呼んでいるそうだが、哲×鉄車掌区には敷居が高い値段であった。

車掌長と専務車掌は、ここでプシュッ!と乾杯。

汗もひき、喉も潤ったところで、夕食前にホテル周辺を三人で散歩した。
嬉しいことにホテル前には、アンパンマンの遊具が揃う公園があり、恰好の遊び場となった。

夏の高知は6時近くでも陽がまだまだ高いが、里山は都市部と違って、風が涼しく感じられた。

明朝訪れるアンパンマンミュージアムも、散歩のついでに下見を済ませた。
夕食の時間まで、フロントで時間を潰していたら、アンパンマングッズが沢山売られていた。

もともと、ここで何か車掌見習に買ってあげようと思っていたが、東京でも買えるものは避けたかった。
車掌見習が何を手にし選ぶか、興味津々で眺めていたら、今日乗ったアンパンマン列車のダイキャストモデルを持ち始めた。

子供向けとはいえ、なかなか精巧にできていて、これなら車掌長も一発OK!
2,000円近かったが、高知家プレミアム観光券を500円×4枚使い、全額分を賄えた。
う~ん…これは気が大きくなってしまいそうだ…と、今後は気を引き締めることにした。

夕食後、車掌見習をサッサと寝かしつけ、専務車掌と2次会。
車掌長も朝早くから動きっぱなしで、ビールとチューハイを飲んだら沈んでしまった。

翌朝、5時前に目が覚めた。
旅行中も先ず新聞とコーヒーを嗜みたい習慣は乱さず、ホテルを出て徒歩5分ほどのコンビニへ向かった。

日の出前だが、外は十分に明るく、空気も少しヒンヤリして何とも清々しく、思わず両手を広げ深呼吸…里山独特な朝の匂いも、久々に嗅覚をくすぐられた。

新聞と缶コーヒーを買い、部屋に戻って窓側に座り、外の明るさだけで新聞を読み始めた。

やがて、6時前になって車掌見習が起き出した。
よく眠れたらしく上機嫌で、カーペットのアンパンマンたちにもお辞儀をして挨拶をしていた。

朝食前に車掌見習と二人で、昨夕遊んだ公園へ向かった。
遊具はまだ朝露に濡れていたが、車掌見習はお構いない様子であった。
陽も山々の上から顔を出し始め、今日も暑くなりそうな予感…

朝食後、アンパンマンミュージアムの9時開館に合わせ、チェックアウト。
徒歩30秒ほどで到着し、今日一番目の来館者となった。

これだけでピースフルセレネに泊まった価値があることを実感した。
しかも、宿泊者には入館券も特典としてサービスされた。

入館後、まず地下1階に降りて「アンパンマンワールド」でひたすら遊んだ。

誰もいない空間で、車掌見習は思う存分遊んだ。
パン工場でパンを焼くマネをしたり、アンパンマンの話す声を電話で聞いたり…

また、アンパンマンたちが暮らす街を再現したジオラマを見ては、お気に入りのキャラクターを見つけては興奮していた。
車掌見習は、アンパンマンが大好きだが、他にはドキンちゃんとホラーマン、長ねぎマンも大好きのようだ。

やがて、某旅行会社の観光バスが到着したようで、団体が押し寄せてきた。
車掌見習はまだ遊びたがっていたが、最上階4Fのやなせたかしギャラリーへ向かった。

フロアに入ると、大きな額縁に入ったタブロー画が、壁いっぱいに幾つも掲げられていて圧巻…
車掌見習の背丈の3~4倍はあろうか…
車掌見習は言葉にならない声を張り上げ、大好きなドキンちゃんに駆け寄った。

この光景を目にして車掌長は、おおげさかもしれないが、パリのルーブル美術館を訪れた時のことを思い出した。

それまで学校の美術室や本でしかみたことのなかった絵が、実物はこんなに大きかったのか…と。
そして、実物から伝わる作者の息吹というか、森に入って感じる畏敬の念に近いものに、我身が襲われた時のことを思い出した。

車掌見習にも、記憶の潜在でも、無意識でも、背丈以上の大好きなキャラクターたちから、何か特別なものを享受されたなら幸いだ。

1階に降りると、次々と来館者が押し寄せ、受付周りはごった返していた。

車掌長自身としてはもう少し、「やなせたかしさんの世界観」に触れられるような作品や展示物(資料)を見たかったが、それはまた次回のお楽しみとしよう。

おそらく、次回車掌見習と来館した際は、今日見せてくれた純粋無垢に喜ぶ姿は、もう目にできないかもしれない…
そう思えば、今夏まさにマイアンパンマンブームが「旬」の時に訪れて正解だったと、つくづく思った。

これで昨日からのアンパンマン三昧は、一通り終了。
車掌見習には満足してもらえたようで、まず「子どもの部」は成功裡に終えることができた。

これからは、高知観光「大人の部」にステージを移す。

館外に一歩踏み出ると、猛暑の熱い空気が身に纏(まと)わりついた。

とても熱い日差しだったが、やなせたかしさん作詞の「手のひらを太陽に」を思い出し、日差しを遮るように手を太陽に翳(かざ)してみた。

♪まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)と、歌ってみた…

気のせいだろうか、不思議なパワーをもらった気分になった。

それにしても、2015夏は記憶に残る酷暑だ。
 

ホタルの便り

カテゴリー:⑤番線:feel the season方面 2015年6月 8日 05:35

初めてホタルの光を見たのは、学校のロッカーの中だった。

小学1年の時、友人のY君が放課後の教室で「いいもの見せてやる」と言った。
教室の扉やカーテンを閉め、Y君のロッカーの前に案内された。

ロッカーの扉を少し開けた隙間を覗くよう促された。
興味津々の片目で見えたのは、ほのかに光る物体の浮遊だった。

それまでホタルを見たことなかった車掌長は、その淡い光が強烈な印象として残った。

ホタルを日常的に見られたという親の世代や、自然豊かな里山で育った同世代の友人のホタルの想い出は羨ましい限りであった。

それからだいぶ経って、伊豆にホタルを観に行った。
東伊豆の大川温泉にある竹ケ沢公園という場所で、初めてホタルの乱舞というのを目の当たりにした。

池の上を飛ぶ無数のホタルとその光跡は、水面にも映って幽玄さを際立たせた。
そして、暗闇に目が慣れてくると、更に多くのホタルを確認できた。

存分に観賞した後は、提灯をもらい10分ほど歩いて帰路につくという趣向も一興であった。

今年も各地でホタルの便りが聞かれる時季になった。
時刻表6月号には、ホタル観賞の臨時列車も掲載され、乗って見に行きたい衝動に駆られてしまう…

優美なホタルの光だが、成虫の寿命は短く2週間ほどとのこと。
また、成虫は何も食べずに、幼虫時代の栄養で「生」を維持しているそうだ。

その儚(はかな)い「生」を、雄雌の愛の交信とも言われる発光で世代を紡いでいる。

人間は成虫いや成人になってからの時間が長い。
その時間の長さは、なんのために人間に与えられたのだろう…

そして、その人生が光輝く瞬間というのは、どういう時なのだろうか…

 

二季

カテゴリー:⑤番線:feel the season方面 2015年5月15日 05:06

昨日、都内では真夏日となる地域があった。

つい先月、桜が咲き春を感じるのも束の間で、みぞれが降り、今月は一気に夏の陽気…
日本には四季があると言われるが、最近は「二季」のような感が拭えない。

四季を実感させる俳句の季語も、そぐわなくなってきた。
実生活ではなかなか実感できない、或いはピンとこないことに、温暖化の影響が危惧される…

車掌長は、四季のある日本を愛おしく思う。
それは、春夏秋冬という寒暖のサイクルが、緩やかに絶妙に移行していくからだ。

それは、自然景観や食の多様性、人々の暮らしに根付いた情緒の趣きや移ろいにも彩りを与えてくれた。
四季はまさに、日本人の価値観や文化の醸造には、なくてはならない自然の恩恵であった。

翻って、二季的なシーズナリティは好きではない。
暑いか寒いかのような極端な気候は、なんだか、0か1かのデジタル的で肌に合わない。

四季であれば、その0と1の間にある小数点の世界に、白や黒だけでは判別や解決できない、答えや道筋があったように思える。

今の世の中は、気候と同じく両極端な思考や物事の進め方、結果が蔓延していないだろうか…

生死、勝負、善悪、白黒、正負、有無、陰陽、昼夜、天地、貧富、左右、上下etc…
何かと、オールオアナッシングを素早く決めることが、賞賛される社会なのかもしれない。

しかしながら、そこに熟慮や配慮と言った0と1の間を埋めるものが欠ければ、人間本来の持つ個人の多様性や少数意見の尊重と言う、四季的な世の中の美しさは紡げないように思う。

日本ではまだ早すぎる季節外れの台風も、近づいたり、上陸する昨今。

世界中で吹き荒れる嵐に巻き込まれないためにも、一人一人の大切にしたい心や価値、物事を明確に持ち、意志表示することが、二季的な世の中を過ごしたり、禍根なく生きてゆく上で求められているように感じた。
 

前の5件 12345678910