車掌見習の時刻表記念日

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2018年4月28日 14:49

一か月半ぶりに休みの土曜日。

車掌長の仕事の最繁忙期のである4月が、瞬く間に過ぎ去ろうとしている。
今年は仕事上の大きなトラブルもあり、その対応にも忙殺されたが、何はともあれ乗り越えることができた。

それはそれとして、今日は車掌見習に自分用の時刻表を買い与えた。
今までは、車掌長が毎月愛読しているものを一緒に見ていたが、雑に扱われては困るので、車掌長がいる時にしか見せないようにしていた。

しかしながら、最近は好きな時に見たいようで、思い切って自分用の時刻表を買ってあげようと思った次第。

大型ではなく小型ながらほぼ同じ内容の、季刊「JTB小さな時刻表」春号にした。

一緒に本屋へ行き、1,000円を持たせて自身で買わせてみた。
御釣りの330円をもらい、これが初めて自分で買った時刻表の記憶として残れば嬉しいが、まだ5歳、ちょっと無理か…

車掌見習が特に好きなページは、東海道・山陽新幹線とフェリー、飛行機の国内線、列車編成表。
自分なりに、のぞみ○○号は東京駅○○時○○分発、品川、新横浜、名古屋○○時○○分着…などと、音読している姿は健気(けなげ)だ。

車掌長が時刻表の見方を覚えたのは小学1年の冬だったから、1年半以上も早い。

今度出る夏号までに、ボロボロになるくらい読むかどうかは別として、最初に買った車掌見習の時刻表として、永久保存してあげようと思う。

 

30年前の未完のアルバムを開く

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2018年3月21日 08:44

 先日、50歳を迎え、ふと気になったアルバムを開いた。

それは、遡ることちょうど30年前の今頃の季節に作った一冊…
学生時代の1学年後輩、Tっちぃ氏(以下、T氏)と、彼が所有するワゴンタイプの550cc軽自動車"Acty"で、九州一周に出た時のアルバムであった。

旅の目的は、二人のメモリアル・ツアーであり、車掌長が20歳を迎えた春、T氏が4月に20歳を迎えるにあたり、十代最後の春を飾るものであった。

車掌長が学生時代に暮らしていた愛知県某半島にある町を出たのは、1988年3月11日(金)5時30分。夜明けにはまだ少し早い時分であったが、寒さも緩み春の訪れも感じさせる清々しい朝であった。

旅の期間だけ1週間と定め、どこに泊まるか、何を見るかは、行く先々で決め、なるべく高速などの有料道路は使わず、安く楽しく欲張りに九州を一周するイメージであった。

アルバムのメモを見ると、本州最西端の下関には874㎞を走り、約30時間を要し到達。
新幹線であれば、当時でも僅か4時間ほどの土地であり、はるばる辿り着いた感動があった。

そして、九州への上陸は、高速の関門橋や国道の関門トンネルという選択肢もあったが、やはり「上陸」というイメージを大切にするなら、「渡船」だと意見が一致し、彦島から小倉へと"Acty"を積んで関門海峡を渡り、九州入りを果たした。

今はこの渡船(フェリー)も廃止されており、アルバムにある車両積載船で関門海峡を渡る一枚は貴重だ。

この旅行中のガソリン代や有料道路代、観光代など、二人共通の出費を賄う便宜上の「旅行用財布」を用意し、食事代や土産代等は各自で払ったが、最終的に7日間に要した旅費の総額は、車掌長は4万円ほどだった。

リーズナブルに納まったのは、宿泊のほとんどが車中だったことが大きい。
閉店したガソリンスタンドや、繁華街の片隅、寝静まった住宅街の路上など…。もちろん、開店前や皆が起きる前、夜が明ける前にはその場を立ち去っていた。

今のように車中泊が簡単にできる「道の駅」のような洒落たモノは無かったが、どこからも通報されることもなく、とても長閑な佳き時代であった。

1泊だけ、たまたま或る飲食店で親切にされた人物の経営するサウナ施設で過ごさせてもらったが、ここがトンデモナイ悪しき想い出の場となってしまった。

また、通行料金徴収時間帯前の早朝のやまなみハイウェイを貸切のような状態で走行中、雄大な雲海を体験し、心が洗われる感慨が身を包んだ。

更には、気が付くと、ガス欠の恐れにも遭遇した。
現在のように、全て電子制御の車では不可能だが、昔の軽自動車ではエンジンを切って下り坂を自走することができた。

そして、スピードが出過ぎた時は、シフトギアをセカンドやサードに入れ、クラッチを上手く合わせると、バイクの押しがけのようにエンジンが始動してエンジンブレーキがかかった。そんなアナログ感覚は実に楽しく、ガソリン消費を節減する走り方もできた。

他にも、高千穂峡や日南海岸、桜島、天草諸島、長崎の夜景など、素晴らしい景色も堪能。
今思えば、旅行中の全てのシーンが、懐かしき佳き想い出…

移動の車中で過ごすのは、他愛無い会話やお気に入りの曲をダビングしたこのツアー専用のカセットテープで音楽を聴いたり、カラオケさながらに二人で絶唱することだった。

今の世知辛い世の中では、まず味わえない人情味あふれる旅先の交流や、何よりもT氏と共にした7日間は、車掌長の人生の中でも有数の想い出深い旅となった。

そんな想い出を刻んだアルバムだったが、冒頭にあるように何が気になって今頃開いたかと言うと、3月14日(月)で作成を中断しており、未完であったことを思い出したのであった。

当時まだ、作成途中とあって、台紙に貼る予定だった色々な領収書やメモが挟まったままだった…

しかしながら、肝心の写真やネガがどこにあるかが、今となっては思い出せない。
特に、その後あった家の建て替えの際、大掛かりなモノの移動や処分があったので、大切に保存されているはずだが、簡単に調べられる状況には無い。

今となっては、お互いに仕事もあって、同じような旅行の再現も不可能だ…
とくに、T氏は重責な立場や仕事で日々忙殺な状況であることを、車掌長は察している。

7日間は勿論無謀だが、30年前の想い出を振り返られるような、そんな一献(いっこん)傾ける場を近々持てれば幸いだ。

また、いつの日かちょっと時間が創れそうなら、平戸で立ち寄ったピザの美味しい喫茶店も再訪したい。そして、まだその店があるのかも不明だが、健在であれば、当時と同じ場所で写真を撮り、お互いの「時」の流れを噛みしめたいものだ。

 

新たな時を刻むプレゼント

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2018年3月 3日 05:27

先日、希望者挙手さんとお会いした。

場所は、JR中央線神田駅構内にある「神田鐵道倶楽部」。
希望者挙手さんの選定であったが、車掌長も行ってみたいバルで嬉しかった。
(バルとは、食堂とバーが一緒になったような店)

当日、時間厳守を信条とする車掌長にはありえない、待ち合わせ場所への到着時刻にあわや「遅延」の懸念が発生。それは、ここ1,2年の忙しさを象徴するような、仕事絡みが理由であった。

しかしながら、ウルトラC的な移動術と運で、ダイヤは「早期復旧」し、定刻に到着できた。

期待のバルは、昭和・国鉄時代の列車「愛称板」や行先表示「サボ」等の鉄道部品が所狭しにディスプレイされ、車掌長が鉄道(時刻表)三昧の生活を送っていた時代へ、一気にタイムスリップさせてくれた。

店内はカウンター席のみで、13名しか乗客になれない人気店。
だが、そこは希望者挙手さんがしっかり「指定券」を確保してくださり、湾曲したカウンター部分の店内を見渡せる上席、いわゆる「勝席」に案内された。

メニューを開けば、長距離列車にはなくてはならない旅の醍醐味である「食堂車」があった時代、供食サービスを担っていた日本食堂さんのお品書きが並び、注文が目移りした。

列車名等に因んだカクテルもあり、まずは「はやぶさ」で乾杯となった。

実は、今宵のセッティングは、希望者挙手さんが車掌長の50歳を祝う場を設けてくださったもの。
そして、乾杯後に小さな包みを手渡してくださった。

蓋を開けて上部から覗くと、鈍く光る金属が目に入った。
そして、それを柔らかく包んでいた緩衝材の木毛(もくもう)から優しく取り出しかけた途端、それが何であるかを理解できた。

それは、SEIKO製の鉄道懐中時計…
そして、本体を裏返してみると、「昭43 □ ○○○ 国鉄」との刻印…

車掌長の生まれ年である昭和43年から、同じ時を刻んできたものであることを実感し、思わず、その時計を掌(てのひら)で摩り、愛おしさが込み上げた。

また、時計本体には多少の擦り傷や汚れも否めないが、かく人間も50年生きていれば、叩けば出る埃もあるし、負った古傷も幾つかはあるもの…
車掌長にとっては、そんな経年の傷さえもが「美品」に思えた。

希望者挙手さん曰(いわ)く、昭和43年で、なおかつジャンク品ではなく、今もネジを巻けば動くものが、なかなか見つからなかった…と。

余談だが、精工舎(現SEIKO)が国産初の鉄道時計に指定されたのは、1929年とのこと。
以来、90年近く経った今も、鉄道懐中時計は、その視認性に優れたデザインもほぼ変わることなく、日本の鉄道が世界一時間に正確な運行を支える必須アイテムとして信頼の時を刻み、使われ続けている…

早速、竜頭を引っ張りながら時刻を合わせ、ネジを巻くと、秒針が動き始めた。
そして、戴いた翌日朝、目いっぱい巻き、更に翌朝同じ時刻にも目いっぱいネジを巻くと、20回指を動かすことができた。

おそらく、24時間で20回巻けると察しがついた。
毎朝、同じ時刻に巻き、50歳を迎えたこれからの新たな「時」を、この時計と一緒に刻んでゆこう…と、感慨に耽(ふけ)った。

そして、思わず神田鐵道倶楽部のスタッフであるW氏が、お通しをテーブルに置いてくれた時に発する「出発進行!」をシャレた名フレーズが脳裏を過(よぎ)った。

新たなステージを歩む「時」の始まりを祝し、車掌長自身も「出発進行!」と指差し呼称。

末筆ながら、希望者挙手さんには、心からの御礼をこの場をお借りして申し上げます。
誠にありがとうございました。
 

 

コメント(2件)

希望者挙手さんからのコメント(2018年3月 4日 17:16投稿)

こんにちは 久しぶりの乗車となりました。
ご誕生半世紀、おめでとうございます。

当日は神田駅開業99周年(車掌長のほぼ倍ですね…笑)とも重なり、限定メニューなど味わうことができたり、想定外で他のお一人様乗客と旅は道連れ的になってしまうハプニングがあったりもしましたが、楽しい時間を過ごすことができました。

私の50歳イベントのように大々的な企画でお返しできませんでしたが、このプレゼントは前々から考えていたもので、正直、入手には思った以上の手間と時間を要しましたが、車掌長に喜んで頂けて、苦労した甲斐がありました(笑

ただ、動作確認はできておりましたが、誤差がどれ程あるのかわかりませんので、しばらくはご注意願います(汗

実は私がこの2月に9社目となる転職をしたこともあり、お互いに節目の門出となり、まさにW氏の「出発!進行!」の掛け声のもと新たなスタートの時を共に過ごすことができてよかったです。

これから更にパワーアップして人生をエンジョイしていきましょう!

車掌長さんからのコメント(2018年3月 4日 21:50投稿)

希望者挙手 様

毎度ご乗車ありがとうございます

改めまして、先日はありがとうございました。
神田鐵道倶楽部車内での相席も、旅情緒があり良かったですネ。

それにしましても、戴いた懐中時計を手に入れるのに、かなりご苦労されたこと、お察しいたしました。

また、その入手に際し費やしてくださった時間や手間も、希望者挙手さんのお心遣いが身に沁みて参りました。

プレゼントは、何を戴いても嬉しいものですが、心のこもった物ほど、その方のお人柄も滲み出るものです。

懐中時計は、時を刻み始めてまだ数日ですが、毎朝ネジを巻き、正確に動いております。
当車掌区にある中途半端な電波時計よりも、正確に時を刻んでおります。

やはり、時計もそうかもしれませんが、大切に使われたモノであれば、機械式の方が信頼性があることを実感いたしました。

次世代へ継承する媒体は、デジタルが主流であることは間違いありません。

しかしながら、車掌長は考え方が旧い人間で恐縮ですが、次世代以降の単位、つまり数百年後の継承であれば「紙」が優れていると考えます。

保存状態にもよりますが、全国各地の博物館や郷土資料館にある古文書などを見るたび、よくこういう貴重なものが、今まで残されているいるものだなぁ…と感心します。

車掌長も50歳を迎え、いずれ自身にも必ず訪れる人生の「終着駅」というものを、遠からず意識しおり、所有する厖大(ぼうだい)な時刻表もどのようにして、未来の人が過去を知り得る「遺産」としての在り方を、ボンヤリながら考え始めました。

話が脱線してしまい、申し訳ございません。

ところで、希望者挙手さんも先月は別の新たな門出とのこと。
転職回数は競うものでもありませんが、希望者挙手さんの方が多くなってしまいましたネ!

お話を伺った様子では、厚遇であり、希望者挙手さんの持てる力を存分に発揮できそうなので、良いタイミングだったと思います。

蔭ながら、今後益々のご活躍をご祈念しております。
体にだけは、くれぐれもご自愛ください。

2件のコメントがあります → まだまだコメントお待ちしてます!

50歳を迎える年頭にあたり

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2018年1月 1日 05:40

二十歳に綴った日記を久々に開いてみた。
1月の冒頭、こんな言葉が目に飛び込んだ。

山本有三はいふ
"たったひとりしかない自分を、
たった一度しかない一生を、
ほんとうに生かさなかったら、
人間に生まれてきたかいがないではないか。"

当時、学生だった車掌長はこの言葉に出逢い、胸に心地良く落ちる言魂を感じた。

車掌長は一人旅が好きだ。
小学1年に時刻表の使い方を知り、同2年から一人で旅に出るようになった。

当初、傍から見れば「旅」とは形容できないものだった。
自宅最寄駅からオレンジ色の国電で数駅先に行って戻ってくる…そんなものだった。

しかしながら、その緊張感や未知な空間にいる自身の存在に興奮した。

やがて、その距離は回を重ねるごとに延び、大方の目的地は母の実家がある関西となった。
最初は新幹線で行ったが、夜行列車に乗ったり、一筆書きで遠回りをしたり…

そんな旅を繰り返しているうちに、車窓の風景や見知らぬ土地に行く楽しみを覚えた。
また、有り余る列車の中での時間に、自分と向き合うことを知った。

減光もされない鈍行の夜行列車の窓には、その時々の自分の顔が映った。
そのもう一人の自分を、好きなときもあれば、嫌悪するときもあった…

窓に映る自分とは…
つまるところ、己の心を投影していたことに気付くのに、そう時間を要さなかった。

年が明け、間もなく五十歳を迎えようとしている。

また、元号が平成になった頃に綴り始めた日記を目にし、その元号も変わることが決まった。
「平成」という時代は、自分にとってどのような"時間の集積"だったのか、省みたい。

モノが溢れ安く手に入り、世の中が便利になったようで、それを自分自身が享受する背景に、他人の時間が犠牲になっている装置や仕組みの存在を知った。

何より、自身もその仕組みの中で足掻いているのを知った。

更に、同様に溢れるモノや情報に囲まれ、埋もれる日常生活には、選択肢が多くなった気もするが、多すぎて「決められない」、「決めるのが面倒くさい」と感じてしまう自身の存在も知った。

だが、溢れているように錯覚する選択肢も、消費至上主義の経済社会の中で、効率性や合理化によって生成され、真にオモシロイものが非常に減った気がする。

そして、そのオモシロクナイものに「モノづくり神話」のヴェールをかけて消費者を欺き、実態はコスト・効率重視、現場軽視という裏の社是が横行し、組織ぐるみで手抜きをしていた大企業や、安全神話に胡坐(あぐら)をかき、定時運行至上主義を優先させたという疑念を持たれても否めないような、新幹線を有する鉄道会社の存在も明るみになった。

そもそも、「選択肢」とは他者によって自身の目の前にズラリと並べられるものではなく、自分自身が探し出したせいぜい2~3個ほどの中から、本命と思うチョイスをするのが、自分には合っていると気が付いた。

そして、そのために必要なものは、「自分に向き合う時間」であることを再認識した…

どんなに忙しい時間の中でも、そんな時間を確保することが、大切なのだ…と。

働き方改革が叫ばれているが、それは他人や行政任せではいけない。
それは、言い換えれば自分自身の「生き方改革」なのだから…

その改革、マイ・レボリューションを意識した時、支えになるのは冒頭の言魂だ。
たった一度の人生を、ほんとうに生かすとは…

ただ、その正解は恐らくスマホやSNSは教えてくれないだろう。
また、暇潰しで眺めているだけの画面なら、時間の浪費と言っても差し支えないだろう。

その正解は、誤解を恐れず言えば、他者と自身とを比較したり、天秤にかけてどちらが優っているかとか、劣っているかなどという、狭隘(きょうあい)な見地ではなく、自分自身の心と向き合う中でしか、得られないのではないか…と思う。

不特定多数の人と瞬時につながる世にあって、「孤独」を恐れない方がいい…

車掌長自身は、自分の知らない人との繋がりよりも、孤独であることに喜びを感じる。
本当に繋がるべき他者とは、不思議と「縁」があって、どこかで出逢えるもの…

ただ、「孤独」とは他者と心を閉ざす意味ではない。
自身の心中に大切にしておく境地であり、そこから救われたり、癒された「自分」が幸せであったなら、他者にも微力ながら役に立てる結果を生み出すのだと思う。

五十歳を迎える元旦にあたり、勝手なことを綴り並べてみた。

かような乗務日誌を読んでくださる方々におかれても、どうぞよい年となりますように…

 

 

10月2日の想い出

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2017年10月 2日 05:26

 小学5年生の10月2日は想い出深い日だった。

当時、「ごお・さん・とお」と呼ばれた国鉄のダイヤ改正が実施された日。
それは昭和53年10月に因んだ、関係者や鉄道ファンらによる通称だった。

車掌長はその9月末、書店に並んだ日本交通公社10月号の時刻表がわからなかった。
それは、毎月楽しみにしていた表紙の意匠が、180℃変わったからだ。

「哲×鉄」の時刻表アーカイブをご覧いただければ一目瞭然だが、9月号までは国鉄の優等列車が日本の四季を感じる風景と織り交ぜて表紙を飾っていた。

しかしながら、10月号は真っ黒の表紙の中心に、女の子がアメを舐める姿を列車から撮影した構図になっており、主役が列車から人へと代わっていたのだ。

ジャンルは違うが、航空旅行パッケージツアー商品の「ジャルパック」が、「アイル」へと変わった際も、同様の驚きを抱いたものだった。

この10月ダイヤ改正以降、同一名称の特急・急行の列車が日に複数本運転される際に使われる○号という数字が、下りは奇数、上りは偶数となった。

そして、車掌長が好きな「あずさ2号」も、8時ちょうどの新宿発ではなくなった。

また、特急のヘッドマークも新設され、それぞれの列車愛称名にちなんだイラストが、その特急の顔として子ども達の人気を集めたものだった。

一方、急行列車が減り特急列車が増えたことは、当時の単に鉄道好き少年だった車掌長には嬉しいニュースだったが、その陰で国鉄衰退の歯止め策として取られた幾つもの合理化の影響など、幼い自身には未だ知る由もなかった。

昭和53年10月号の時刻表表紙の想い出から、平成3年に「ジャルパック」から「アイル」へと変わったパンフレットデザインの激変も思い出した。

どちらも共通するのは「黒の変化」だった。

降って沸いた衆院選も、緑色が急遽現れた。
しかしながら、その旗印も色合いも、なにやら斑模様になりつつある印象は否めない。

いっそ、裁判官が着衣する法服のように「何色にも染まらない」、黒色を旗印にした政党が出てくるかもしれない。
それは、時代の変わり目を暗示するような…

10月2日の時刻表の想い出から、そんな連想がふと浮かんだ。
 

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