"yomi-tetsu" ワシントンポスト紙で紹介

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2017年1月14日 19:58

昨年12月上旬、アメリカ合衆国の新聞"ワシントンポスト"の取材を受けた。

趣旨は、本国の読者に日本の多様な鉄道趣味に興じる人々を紹介したいというものだった。
中でも、撮り鉄や乗り鉄、読み鉄、音鉄、車両鉄、駅鉄、駅弁鉄を、取材対象にしたようだ。

そして、車掌長は”yomi-tetsu"の一人として、このたび紹介された。

アメリカ本国での記事掲載は、jan.6.2017であったとのこと。

英文での掲載記事を見てみたが、先日の毎日新聞の「ハマりました」とは話題の角度が違い、アメリカンな感性だなぁ…と思った。

それは、パーソナルな仕草や考え、その元となる「生活スタイル」を引き合いに、人物像を浮かび上がらせる試みのように思えた。
従って、車掌長自身のみならず、専務車掌にも質問を振ったり、車掌見習の行動もよく見ていた。

毎日新聞との共通点は、車掌長自身のプロフィールにあたる部分だろう。
小学1年生から時刻表を読み始め、2年生で実際にプランを立てて旅に出始めた云々…
そして、1980年から毎月購読し続け、収集分を含め660冊余りを所有。

独自の記事としては、自宅に車掌見習用に組んだプラレールの常設レイアウトや、車掌見習がその時着ていた電車の絵がプリントされたセーター、部屋から見えるJR線に着眼し、「どれも趣味にしてます」という記事になっていた。

また、読み鉄としてのスキルに関し、テレビ番組等から企画内容の検証等の要請があるとの記載もあった。
そして、それに応えるのは、自身の満足のためであり、お金のためではない、とも。

締めくくりは、仕事が全く趣味に関連しないことにも触れ、趣味が仕事のストレスを軽減する良いパートナーであると…

取材時、TOKYO支局長や通訳兼記者の方との雑談でも、日本の鉄道の定時性が話題になった。
分単位の運転ダイヤが正確に実行されているのは、驚嘆だと。

また、1~2分遅れただけで、駅や車内でお詫びのアナウンスが入るのも、国民性がわかると…

本国では、そもそも日本のように毎月発売される時刻表は存在しないようで、人々も時間通りに列車が来るなんて思ってもいないそうだ。

車掌長以外にも、数名の方々の○○鉄ぶりを拝見し、大変興味深かった。

果たして、そんな鉄道趣味を楽しむ日本人を、アメリカ本国の読者はどのように感じたか、それも興味が湧くところだ。

日本に居ると、ローカル線や寝台列車廃止の話題ばかりで、楽しみ方が先細りのように思っていたが、世界的に見れば、本来は単なる「足」に過ぎない鉄道を、これだけ色々なジャンルに細分化した上で、愛着を持ったり、楽しみの対象にしている国民は、珍しかったり、奇異に映るのかもしれない。

奇異に映ると言えば、これは同じ日本人である我々から見てもそうだが、一部の○○鉄にマナーを守らずに、自身の欲求のみを満たそうとする恥ずべき傾向がある。

これは列車運行にも支障を来たす危険な行為である。
また、一般の方々にも迷惑を掛けており、他国にも自慢できない、負の一面や側面だと思う。

何はともあれ、車掌長自身としては、海外メディアに紹介されるなど、夢にも思っていなかっただけに、大変貴重な体験となった。

 

毎日新聞「ハマりました」掲載で新たな出逢い

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2016年12月31日 06:03

12/7付、毎日新聞の「ハマりました」欄で、車掌長が紹介された。

同欄は、「趣味に没頭し、至福の時を過ごす人々」を紹介するコーナー。
車掌長は、「時刻表を読む 文字と数字に膨らむ好奇心」と題し、机上旅行に出て40年、JTB時刻表収集659冊というプロローグで、時間旅行にハマっている様子を記事にしていただいた。

そのことは、車掌長自身にとって大変嬉しい出来事であったが、掲載後に続く或る御方々とのご縁に、新聞という媒体が紡ぐ素敵な出逢いを実感した。

その御方々は新聞社を通じ、過去の時刻表を収集する車掌長へ想い出の品を譲って下さった。

難病で御子息を亡くされた母上からは、生前にご本人が収集した時刻表で最期に残っていた形見でもある貴重な1冊を、「やっと託せる場所が見つかった」という想いとともに、車掌長に授けてくださった。
偶然だが、その御子息は車掌長と同年齢であった…

また、別の御方からは、ご自身が学生時代に旅した際に購入したという、鉄道地図を譲ってくださった。

発行は1959(昭和34)年5月とあり、今は無き鉄道路線(特に軽便鉄道)が、日本中を張り巡らせていた様子を窺(うかが)い知れた。

日本の鉄道史上、最東端を走っていた根室拓殖鉄道(根室~歯舞)や、炭鉱全盛時の路線網、中央本線の支線となる三鷹から分岐していた武蔵野競技場線他…
ここに列挙が困難なほど、今では信じ難いような場所に鉄路が延びていた。

同地図の特色として、時刻表掲載の地図とは違い、一目で電化・気動車区間がわかるようになっていた。
地図の表紙にもその意味する記載があり、蒸気機関車の煙を気にせず旅ができることを、人々が望んでいたことを察した。

また、寄贈者が旅を計画した際に記したと思われるマーキングも、今まで知る由もなかった御方の学生時代の旅をトレースするようで、思わず目を細めてしまった。

この場を借りて、「ハマりました」をきっかけに出逢えたご縁に感謝いたします。
そして、担当記者の御方にも、お礼を申し上げます。
皆様、ありがとうございました。

今朝、これらの出来事を通じ、時刻表という雑誌につくづく色々な想いを馳せた…

一般的に「時刻表」とは、ひと月ごとに最新のダイヤを掲載し、次号が出て役目を終えた後は、廃棄されたり、人々の記憶からも消えてゆく運命にある。

しかしながら、このように手元に残しておくと、それらは史料的な意義を帯びたり、人々の脳裏に置き忘れていた様々な記憶を呼び覚ます、「玉手箱」のような存在だと…

車掌長はその玉手箱を開ける幸せを感じ、今後も時間旅行を楽しんだり、共有できる人々との出逢いを大切にしてゆきたいと思った。

それは、これまで同様、単に時刻表収集を目的とするのではなく、今後もご縁のあった方々の半生にも共感し、お互いにその時間旅行を楽しめる「タイムトラベル・コンダクター」として、趣味人としても、時刻表とともに残された人生を過ごしたい…と、大晦日の朝に想いを振り返った。

末筆ながら、本年も「哲×鉄」へのご乗車、誠にありがとうございました。
今年後半は、仕事の関係で乗務日数が激減しましたが、今後も不定期ながら乗務を続けて参ります。

どうぞ、皆様におかれましては、迎える御年が佳き一年となりますよう、心からお祈り申し上げます。

 

特急「あずさ」号50周年記念

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2016年12月11日 05:35

♪明日私は 旅に出ます
 あなたの知らない ひととふたりで

兄弟デュオ"狩人"が歌う「あずさ2号」は、当時(1977年)小学4年生になる春に大ヒット。
中央本線の特急「あずさ」は、一躍その美しい響きの名を全国に馳せた。

その頃、ひとりで箱根の旧東海道の杉並木を歩くような小学生だったが、歌詞の深い意味などわからずに、その心寂(うらさび)しげなイントロと裏腹に、別離から新たな旅立ちを決意する躍動感あるサビ部分が、強烈に印象に残った。

この曲のヒット以降、車掌長にとっての心理的な「新たな旅立ち」の描写は、"8時ちょうどのあずさ2号"であった。

また、通った小学校の校舎の一部や屋上からは、通過する「あずさ」を見るのが楽しみだった。
とくに、下り列車は毎時00分に新宿を発車していたので、その数分後に学校前を通過するが、その時間は気も漫(そぞ)ろであった。

そんな想い出深い「あずさ」が、明日12月12日、誕生から50周年を迎える。

現役の特急愛称名(新幹線を除く)としては、長老の部類に入り、観光やビジネスに多くの人々に利用され、愛された列車名だと思う。
また、走行ルートが山岳路線を含み、急行「アルプス」とともに、銀嶺を目指すハイカーにも人気があった。

誕生50周年ということで、当時の交通公社時刻表1966年12月号を出してみた。

当該号の表紙は、やはり「あずさ」。
上野原付近の鉄橋を181系車両が、誇らしげに桂川を眼下に渡っている。

また、巻末の読者向けの「おたのしみページ」には、"中央線のすべて"や"特急「第1あずさ」試乗記"などの特集を組み、運転開始を記念していた。

当時は10両編成中、食堂車と1等車(現グリーン車)2両を組み込み、全車指定席で、新宿を出ると甲府と上諏訪にしか停車せず、1日2往復運転のまさに「特別急行列車」だったことが窺(うかが)えた。

いまや、定期列車としては1日18往復も走り、新幹線開通で特急が壊滅する「負の影響」を受けず、在来線特急の旅を満喫できる貴重な列車(路線)だと思う。

とは言え、並行する中央道の高速バスとの競争も、長年意識してきた経緯があり、更なるスピードアップは課題なのであろう。

今後も同じ列車名で走り、末永く愛されることを、心から願ってやまない。
その美しい名は、上流部に上高地を流れる「梓川」(あずさがわ)に由来している。

その心が洗われるほどの清冽(せいれつ)な流れのように、利用する人々のデトックスにも資するような、心の拠り所となる列車であり続けてほしい…

 

 

今は朏(みかづき)なれど

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2016年11月28日 04:07

昨日、雨の予報だった横浜は薄日が射す天候だった。

この日、新たな門出を祝うひとときを、天気も微笑む形となった。
場所は横浜みなとみらいにおいて、専門学校教員時代の教え子K君が挙式した。

乗務日誌ご常連の希望者挙手さんも、同じクラスを教えた由縁で、ともに参列となった。
また、他にも教え子3名が集まり、披露宴はプチ同窓会にもなった。

教え子とはいえ、彼らはもう40歳を越えた頃合いの立派な大人たちだ。
しかしながら、彼らを前にすると、学生当時に旅行の資格取得に向けた受験指導や就職活動の援助など、ともに過ごした時間が鮮やかに蘇った…

なかには、卒業後も同じ仕事を続け、今では誰もが知っている大企業の中堅幹部になっている者もおり、転職を繰り返す車掌長にとっては、頭の下がる想いだ。

ときに、今般祝賀の主役K君は、旅行の資格も取得し、念願の旅行会社にも入ったが、30歳を機に一念発起して看護学校に入り直して看護師になった。

そして、そこで縁があった御方と結ばれた。

車掌長の知っているK君は、友人達から「いじられ役」ながら、いつも人の輪の中に居て、勉強も真面目に取り組んだり、周囲への気遣いもマメな学生だったが、看護師として働く同僚や先輩・上司からお祝いのコメントを耳にしても、その「変わらぬキャラ」に目を細めたものだった…

そのマメさが素敵な女性との縁をもたらし、遅咲きではあったものの、この日を迎えたことは本当に良かったとつくづく思った。

そんな幸せなお二人を見ていて、「朏」という一文字が頭に浮かんだ。
月が出ると書いて、"みかづき"と読む。

本当に日本語は素敵だ…

新月を「朔」(さく)と呼ぶが、まだ陰暦を用いていた頃、暦で月の始まる1日(ついたち)を「朔日」とした。
"ついたち"とは、月の始まりとする月立ち(つきたち)が転じたものらしい。

新月の1日目や2日目は、ほとんど見ることはできず、人が目で確認できるのは3日目の三日月だと言われている。

さすれば、お二人が出逢った頃の「朔」は、当人達以外には見えるはずもなかったが、多くの人の目に映った祝福されるお二人こそ、「朏」だったのだろう…

今後、二人が紡ぐ時の永い連なりが、福与(ふくよ)かな形に膨らみ、やがて満月(フルムーン)となるのであろう…

そんな時間旅行の始まりに立ち会え、幸せのお裾分けをいただいた一日であった。

末筆ながら、K君ご夫妻の御多幸を心からお祈りしたい。
 

 

コメント(2件)

希望者挙手さんからのコメント(2016年12月 8日 01:50投稿)

こんばんは。毎度の寝台列車乗車です。

私も車掌長と共に招待頂き、私がK君夫妻を見て頭に思い浮かべた言葉は「タケミカヅチ」でした。ちょっと似てますね(笑

タケミカヅチとは、私の故郷にある鹿島神宮の主祭神です。
鹿島神宮には物事を始めたり、旅の安全に御利益があると言われています。

門出や旅立ちを意味する「鹿島立ち」という言葉がありますが、その昔、防人や武士が旅に出る前に道中の安全を祈願して鹿島神宮に参拝する慣習があったことに由来しています。

また、天照大神の使者が鹿の神霊であったことから、奈良の春日大社に鹿島神宮の鹿を無事に送り届けたことも、その由縁と言われています。(春日大社の4柱の祭神にタケミカヅチが祀られています)

車掌長はレイラインという言葉を聞いたことがありますでしょうか。
鹿島神宮を東の端として、皇居~明治神宮~富士山~伊勢神宮~吉野山~高野山~剣山~高千穂がほぼ一直線上に並びます。
このように神聖な地が一直線に並ぶラインをレイラインと言います。
このレイラインにおいても、日が出る東の入口が鹿島神宮であることからも「始まりの地」としての御利益があるとされています。

希望溢れる新たな門出に立ったK君夫妻を見て、生まれたときからお参りしてきた故郷の神に思いを馳せ、私も時間旅行を楽しませてもらいました。

車掌長さんからのコメント(2016年12月 8日 04:07投稿)

希望者挙手 様

毎度ご乗車ありがとうございます
車掌長は今朝3時に起きました。乗車いただいた時間は、ついさきほどだったのですネ。

さすが、希望者挙手さん。
ご自身の故郷に所縁(ゆかり)の神様を思い浮かべられたとのこと、イマジネーションが深いなぁ…と思います。

鹿島神宮は車掌長も二度お参りしたことがあります。
荘厳な楼門をくぐり、緑豊かな巨木の参道を歩くと、心が洗われる思いがしました。

希望者挙手さんが仰る通り、旅立つ際に道中の安全を祈願する「鹿島立ち」は、車掌長の琴線に触れる参拝の動機になりました。

余談ですが、京都の「首途(かどで)八幡宮」も、旅行の神様として知られています。

ところで、「レイライン」という言葉は存じませんでした。

しかしながら、複数の神聖な地が一直線に並ぶという説明から、意図したものか、偶然かは定かではありませんが、「神ってる」と思いました。

車掌長も神社・仏閣は好きで、中学時代から参拝記念に御朱印を集めています。

いま若い女性達の間でもブームのようですが、流行るのも理解できます。一筆一筆を目の前で認めてくださるのは、大変ありがたいことです。

車掌長は、この認める(したためる)という言葉が好きです。
単に「書く」よりも、「丹精さ」や「奥ゆかしさ」があるように感じます。

年の瀬となり、何かと慌しい時期ではありますが、事の大小に関わらず「認める」心持ちで物事に向き合うことが、車掌長自身には必要だなぁ…と自省する今日このごろです。

末筆ながら、昨日の毎日新聞掲載の記事に関しましてもメールをいただき、ありがとうございました。

「ハマりました」というコーナーで紹介されましたこと、私にとっても佳き想い出となりました。

2件のコメントがあります → まだまだコメントお待ちしてます!

60年の時を味わう

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2016年11月 4日 05:32

先日、60周年を記念する琥珀色のお酒が発売された。

それは、ブラックニッカ誕生60周年を記念した数量限定の特別なウイスキー。
ネーミングも「ブラックニッカ ブレンダーズ スピリット」という、胸躍るもの。

ニッカウヰスキーの公式ホームページでは、こんな魅惑的な言葉が並んでいた。
「60年の誇りをブレンドに込めて」
「60年の軌跡のすべてをこめた、ブレンデッド」
「歴史を彩る数々の原酒を、惜しみなく」
etc

時間旅行を愛好する「タイムトラベル・コンダクター」の車掌長にとって、これらの言葉は異議なく購入への意思決定へと導いた。

発売日は売切れを想定し、幾つかの策を講じていたが、幸い無事に購入できた。

早速、車掌区で専務車掌に自慢げに話した後、スクリューキャップを捻り、グラスに注いだ。
テイスティングを語るなどということは、知識も経験も少ない車掌長にはできない。

しかしながら、実際には微量なのかもしれないが、1956年蒸留の余市モルトが含まれていることを考えると、60年間の「時」こそが、車掌長にとっては最高の「テイスティング」なのであった。

前述のHPには、甘く香る新樽熟成の余市モルトや、華やかなシェリー樽熟成の宮城峡モルトなど、ニッカの歴史を刻んできた様々なモルト原酒と、長期熟成のカフェグレーンとの調和が楽しめるという。

「ブラックニッカ」は、初代マスターブレンダ―の竹鶴政孝氏によって、この世に送り出された。
60年の時を超え、いま、ブレンダ―魂の集大成を味わえるのは、まさに至福と言える。

飲み終えて、ボトルを手にすると、その濃紺の美しさにも見とれてしまう…
光の加減によっては、瑠璃色にも見える…

すすきの交差点でお馴染みの髭のおじさん、「キング・オブ・ブレンダーズ」の瞳も、偶然だろうが、ボトルの色とマッチして誇らしげに映った。
 

コメント(2件)

希望者挙手さんからのコメント(2016年11月10日 08:56投稿)

おはようございます。
久しぶりの乗車は通勤電車となりました(笑

先月、私は40年のタイム・トラベルを堪能してきました。

私が洋楽(Rock)に目覚めたきっかけは、小6の時にヤングミュージックショーというテレビ番組で観た、KISSというロックバンドのコンサートです。

そのKISSのメンバーが所有する秘蔵品の数々を展示する、KISS EXPOというイベントが、10月に都内で開催されました。

KISSの象徴的メンバーであるベーシストのジーン・シモンズがイベント初日に来日して、本人が会場内を案内してくれるプレミアム内覧会に招待してもらえる抽選があることを知人から教えてもらい、応募したところ、なんと!当選者2名という狭き門をくぐり抜けて、奇跡的にもプレミアム初日内覧会のチケットを手に入れることができました!

これには流石に、一生分の運を使ったなと感じてしまいました(笑

2時間あまりの内覧会は、ジーン・シモンズと直接話ができたり、通常は手を触れることのできない愛用の楽器や小道具などの展示物を直接手に持たせてくれたりと、これまで味わったことのない至福の時間でした。

私が小6の時に観たヤングミュージックショーの台本を見せてもらったときは、感慨深いものが込み上げてきました。

これまで着用してきたKISSのTシャツにサインをもらい、これはもう着られないな、と嬉しい悩みもできてしまいましたが(笑

40年前に私をRockの世界へ誘い、これまで映像や遠いステージの上でしか見たことのない憧れのロックスターとの対面は、想像を絶する興奮と感動に満ちたものでした。

部屋に飾ったジーン・シモンズとのツーショット写真は、11歳の自分が重なって見えるような気がします。

車掌長さんからのコメント(2016年11月11日 05:00投稿)

希望者挙手 様

毎度ご乗車いただきありがとうございます。

KISS EXPOでのプレミアム初日内覧会、スゴイ強運ですネ!
希望者挙手さんにとって、まさに夢のようなひとときを過ごされたこと、想像いたしました。

一生分の運を使ったと思われるほど、ラッキーでハッピーな「時」と出逢えたことは、また同様の「時」との出逢いがあると思いますヨ。

それは、そうした「時」に出逢えた歓びや感謝の「感性」や「心持ち」を磨くことによって、向こうから近づいてくるような、そんな気がいたします。

投稿いただいた乗務日誌を拝見し、素敵なタイムトラベルを楽しまれたご様子も、追体験させていただきました。

希望者挙手さんが、小6の頃から観ていた「ヤングミュージックショー」という番組は知りませんでしたが、調べてみましたら、世界一流のロックミュージシャンを紹介するNHKの番組だとわかりました。

そして、ご覧になった放送が1977年5月7日(土)だったと思われます。

希望者挙手さんが小6、車掌長は小4です。

何か記憶の糸を手繰(たぐ)るような、タイムトラベルの醍醐味を共有させていただきました。

40年という尺度のタイムトラベルを楽しめたということは、言い換えますと、それだけ私どもも歳をとった、ということを改めて実感いたしますネ。

余談で申し訳ありませんが、KISSと言うと、車掌長は昭和レトロのゲームだった「ピンボール」を、すぐに思い出しました。
それこそ、小学・中学時代に、ゲームセンターでよく遊びました。

傾斜した盤面を転がる球を、フリッパーと呼ばれる可動式のレバーで弾き返す遊びですが、その盤面やスコアボードに描かれたKISSメンバーの強烈なメイクやイデタチが蘇りました。

ジーンシモンズ氏とのツーショット写真や、サイン入りTシャツを眺めたとき、希望者挙手さんは11歳のご自身に対し、こう呟(つぶや)かれたことでしょう。

「40年後にビッグサプライズがあるよ!」、と…

素敵なタイムトラベル・ストーリーを、ありがとうございました。




2件のコメントがあります → まだまだコメントお待ちしてます!

前の5件 345678910111213