そういう世代

カテゴリー:④番線:日々雑感方面 2014年10月19日 05:05

先日、国土交通省がリニア着工を認可した。

東京・名古屋間が40分、時速500㎞。
子どもの頃は未来の夢だと思っていた話が現実となるのか?
40代後半となった今、いざそんな話になってくると想いは複雑だ…

リニア開通のメリットは、そのスピードが生み出す移動時間短縮と、その恩恵による経済効果と言われ、識者によれば、首都圏と中京圏(後に関西圏も)が、世界に類を見ない巨大都市圏を形成するとのこと。
そして、人の往来が活発になり、経済を活性化しようと目論(もくろ)んでいるようだ。

なんだ、また「お金」の話かと、その発想の根源には辟易(へきえき)してしまう…
人の往来の増加と言うが、日本人の人口は少子化で減る一方だから、外国人の移住でも想定しているのか?
そうでなくても、リニアが完成する頃は、人が移動せずに用が足りてしまう技術革新が起こるかもしれない。

もちろん、新たな科学技術の進歩や、人間が未知なものを希求及び探求しチャレンジする精神は大切だが、時にその行動は人類に幸福をもたらさないこともあろう。

原子力発電などは、その最たる負の産物だ。

また、リニアは多くの未解決の課題を放置したままだ。
一民間企業のプロジェクトであることを盾に、国民的議論を巻き起こさず、「明るさ」のイメージ先行で認可に至ってしまったことは、将来に禍根を残すだろう…と懸念する。

その課題とは、様々なメディアを通して各方面の識者が論じているので、ここでは割愛させていただく。

一方、リニア着工について別の視点・角度から、車掌長はつくづく思うことがある。
それは、今より更に、物事に「のりしろ」のない、気持ちに余裕のない、選択肢のない国になるなぁ…と。

私見で恐縮だが、車掌長が子どもの頃、例えば東京から名古屋へ行く場合は、幾つかのルートを選ぶ楽しみがあった。
もちろん、当時の人の多くも、ふつうに東海道新幹線を利用したことは、今と変わらないだろう。

しかしながら、ちょっと寄り道をしていきたいと考える酔狂な人間には、いまとは比較にならないほど、選択肢となる列車が多かった。
それは、今は絶滅状態の「急行列車」や「長距離普通列車」、そして何よりも沢山の「夜行列車」の存在であった。

それらを駆使し、東海道本線で途中下車をしながら、或いは遠回りして中央本線や大糸線、高山本線で美しい景色を楽しんだり、飯田線経由でのんびり各駅に停まりながら膨大な時間をかけて、名古屋へ向かうという楽しみと選択の自由度はすこぶる高かった。

一般的には、非常に効率の悪い移動時間の使い方に映るかもしれないが、その移動時間に出くわす非日常な時間やトラブルも含んだ出来事は、後々の「生き方」や「考え方」の多様性に、大きく寄与したと思う。

そして、それらは1つ1つの物事と自分を強力に接着させる「のりしろ」になってきたと感じる。

車掌長は、たまたまそのジャンルが「旅」であっただけだが、同世代で「何か」にこだわりのあった人はそれぞれのジャンルで、或いは特段のこだわりがなくとも、日々の暮らしや遊びの中で同じような経験をしてきたのだと思う。

一見、遠回りや寄り道ばかりをして、無駄のように思われる時間の使い方を積み上げてきたことが、車掌長と同世代の生き様というか、面白さではないだろうか。

言い方を換えれば、何でも自分でやってみた結果、「良かった」や「ダメだった」と確かめる醍醐味や、それらを実践できる選択肢の多さがあったとも言える。

今は掌(てのひら)の中で、実体験を経ずに結果を見極められ、無駄なことをせずに済むらしい。
その結果、物事を効率的に進める「パターン」や「思考」が浸透し、誰もがそこを通るようになってしまった。

それはそれで、とても賢いように見えるが、逆に選択肢のない社会になったとも言えるだろう。
個人の動きや人生にさえ、効率や合理性を求められ、無駄であることに不寛容である社会…

自分で考えて動き失敗を重ね、何かを学び、習得することに喜びや価値を見出せた車掌長の子ども時代。
もはや「そういう時代」ではないのだろうが、「そういう世代」であるのが車掌長だ。

杞憂に過ぎればよいが、リニアが完成すればそんな息苦しい(生き苦しい)社会へと、ますます加速する懸念を感じてしまった。

 

体育の日に思うこと

カテゴリー:④番線:日々雑感方面 2014年10月13日 12:34

10月10日が体育の日でなくなって久しい。

体育の日が10月第2週となり、たまたま10日になる年が過去にもあったり、今後もあるにはあるが、体育の日は毎年「10月10日」であることに本来の意味があったと思う。

月曜を祝日にして三連休にするのも結構だが、「体育の日」はその発祥の由来からして、10月10日であることにこだわってほしかった。

体育の日はここで言うまでもないが、50年前の1964年10月10日にTOKYOオリンピックの開会式が開かれたことを記念し祝うもの。

アジア地域での初開催や、戦後日本の復興を世界にアピールした点において、歴史的な日として日本の多くの人々の胸に刻んでおきたい祝日だ。

そんなメモリアルな日を、三連休にした方が経済の活性化をもたらすという、お決まりの安易で卑しく貧困なビジネス根性によって、台無しにされたのは至極残念だ。

ところで、今朝は多くの新聞で子供の体力についての話題が見受けられた。

それは、1964年度から実施されてきた「運動能力調査」の2013年度の結果を、昨日文部科学省が発表したことによるが、今回で50回目の節目にあたり、初回からの推移を公表したことが注目を集めた。

中でも、1964年の東京オリンピックや1972年の札幌冬季オリンピック、1997年の長野冬季オリンピックが開催された時はスポーツ熱が高まり、数値も上昇傾向を示したことが興味深い。

また、全体的には80年代が子どもの体力のピークだったことがわかる。

それは、64年から一貫して行われている4種目で比較したそうだが、握力、50m走、ボール投げ、反復横跳びという名称は懐かしかった。

握力と言えば、高校時代の友人にリンゴを握って潰せる強者がいたが、一体どれほどの握力があったのだろう…と、ふと思い出した。

車掌長は、スポーツは苦手な方だが、水泳は20年以上続けたり、体を動かすことは好きだった。
学生時代も車のトランクには、いつでもキャッチボールができるように、グローブ2個とボール、バットを載せていた。

いまや小学生からスマホを所持する子もいる時代。
高校生に至っては9割が所有し、起きている間は常に操作していないと不安になる子も少なくないようだが、体を動かすことの素晴らしさも並行して味わってもらいたい。

スマホでもバーチャルなスポーツはできるのだろうが、友人と交わすボールがミットに入る心地良さや痛さは味わえないだろう。

会話はしばしば、キャッチボールに例えられる。
相手が受け取り易く胸元付近にボールを投げるように、言葉も優しく心に届くように掛けられれば、コミュニケーションは良好かつ円滑になるであろう。

逆に、会話はドッヂボールではない。
相手を一撃でやっつけてしまうような、或いは集団で四方八方から追い込むものではない。

特に、顔の見えないスマホ(LINE)での会話というのは、よほど注意しなければ、そういう世界に陥りがちだ。

「体育の日」というものが本来の意義から外れた以上、10月第2週でもよいから、せめて子どもをスマホというちっぽけな機械から解放される契機となる日へと昇華してほしい…

子どもの成長に必要なものは、不特定多数の人とのつながりやアプリの数ではない。
たった1人でも、大切にしたい、大切にできると思える友人と出逢い、友情を育むことだ。

台風の近づく体育の日に、そんなことを考えたりした。
 

こころを読み終えて

カテゴリー:④番線:日々雑感方面 2014年9月25日 05:39

子ども時代の読書感想文のようなタイトルが懐かしい。

本日付で朝日新聞に連載されてきた「こころ」が終着駅に到着した。
そのホームに降り立った車掌長の心情は、明治という1つの時代の終焉が、漱石自身の「何か」の区切りでもあったというものだ。

それを、「私」であったり、「先生」であったり、「K」という友人に、自身の思いの丈(たけ)を代弁させたのであろう。

今回の「こころ」の連載は、1914年(大正3)4月20日から8月11日まで、当時の朝日新聞に連載されてからちょうど百年を迎えたことを記念し、時同じくして本年4月20日から再度連載されたもの。

毎朝、紙面を順番に読み進めて、読者の「声」や社説と同じ頁にあるこの連載小説に辿り着く頃には、飲み始めたコーヒーが半分ほどになっていたものだ。

連載が始まった頃、新聞に目を通す頃は夜が明け始め、コーヒーもアイスであったが、最近はまだ夜も明けず、つい先日からはホットに変わり、季節が移ろいだのを感じた矢先でもあった。

明治という時代が、どのような世の中であったり、人々の精神的な生き様を、少し垣間見れたような心持ちになった。

一方、自分自身に置き換えてみると、「昭和」という時代から「平成」という時代を、40代後半という歳で生きている意味を、ふと感じてしまった。

過ぎた時間は輝きを増して回顧されるというが、不便だったことや、不幸な出来事も含めて、「昭和」の頃は良かった…などと、感慨に耽ってしまうのは早計だろうか…

しかも、「昭和」とは言っても、車掌長は戦争という暗黒な時代を知らない世代。

世の中が経済的に発展し、多くの人々が自由を享受、謳歌する「昭和」を、子どもから学生時代まで過ごした。

このたび、「こころ」が終着駅に着いたところで、車掌長自身の「昭和」にも、何か区切りをつけねばならない…という心情になった。

なんとも、とりとめのない中途半端な感想だが、率直な想いでもある…

 

 

どこにいだの みんなまってるよ!

カテゴリー:④番線:日々雑感方面 2014年9月13日 05:28

「みなさんは いま そういう場所に立っているんです」

大槌町の旧役場庁舎の玄関前、黙祷を捧げた後に、語り部ガイドの東梅さんがそう切り出した。

庁舎の時計は、津波に襲われた時刻を指したまま…
そこから、町の時間も止まったまま…

8月下旬、母の看護学校時代の同窓旅行を企画・手配・添乗し、青森や岩手を訪れた。
その際、通常の観光以外に、東日本大震災で被災した地域を訪ねたいと考えた。

それは、震災から3年半が経過し、自分自身も含めた社会全体に、「あの日」の記憶が薄らいだり、風化しつつある懸念や危機感があったことに他ならなかった。

計画当初は、車で被災地を回り、今も生々しく時を止めた遺構を見るだけでも、「何か」を感じられるとプランニングをしていた。
だが、それでいいのか…?と、違和感を抱くようになった。

そして、更に下調べをしてゆく中で、被災した町民の方が語り部となり、「あの日」を自身の言葉で案内してくれる団体の存在を知った。
それが、「一般社団法人おらが大槌夢広場」であった。

早速、当方の訪問日時を伝え、ガイドの申し込みを希望した。

東梅さんは、高校の卒業時に「あの日」に遭ったそうだ。
あれから、3年余りの時間が過ぎて21~22歳の青年になるが、彼の一言一句は、頭頂部から足の指の爪先までズドンと落ち響く「言霊」であった。

どの場所に立っても、彼が繰り返し話してくれたことは、「自分の命は自分で守る」、「日頃から大切な人を大事にする」ということであった。

いま大槌町は復興に向けた工事が進められ、ダンプカーが忙しく土砂を運んでいた。
旧役場庁舎も、一部が保存されるそうだが、解体に向けた足場が架けられようとしていた。

こうした遺構の1つ1つの保存についても、町民の間で何度も議論されたが、賛否はほぼ半々。
1人1人にとって、「忘れてはならない時間」と、「忘れたい時間」があり、特に後者の方々にとっては、見るとどうしても思い出して辛くなるという心情が強いとのことだった。

また、町全体が嵩(かさ)上げされてゆく中で、消えつつあるものを東梅さんは案内してくれた。
旧庁舎から歩いて3分ほどの場所、ここはかつて町の中心部で多くの商店や家屋があったという。

いまはそれらがあったことを、辛うじてうかがい知ることができる、コンクリートの基礎部分があった。
そして、ある御宅の基礎が残る歩道部分には、このような文字が遺されていた。

「どこにいだの みんなまってるよ!」

"どこにいだの"は、どこにいるの?という、この土地の言葉…

青いペンキで書かれたこの文字は、津波で離れ離れになった家族が、自宅のあった場所に必ず戻ってくる、戻ってきてほしいという願いを込めた、命や絆を繋ぎとめたる文字であった。

「いま みなさんは そうした場所に 立っているのです」

「みなさんが それぞれ ここで何かを 感じてください」

「そして その感じたものを いつまでも 大切にしてください」

東梅さんは、再びそう話してくれた。
続けて、この文字もやがて嵩上げ工事に伴い、なくなります…と。

一方、大槌町住民の中には、私どものように被災箇所をガイドする姿を、快く思っていない人も少なくないと説明してくれた。

それは、「見せ物じゃない」という、強い意識。

しかしながら、東梅さんは、自分も当初はそう思っていたが、大槌町が本当の意味で復興できるのは、この大震災で多くの尊い命と引き換えに得た教訓を、自分たちが他の人々に伝えることだと悟り、この職業に就いたと話してくれた。

多くの人々の命や平穏な暮らしを奪った甚大な災害で、後世に伝えるべき反省や教訓、戒めは何であったのか…

テレビや新聞の画像、字面(じづら)だけでは、わからない、伝わりきらない、「何か」が、車掌長の胸に落ちた。

末筆ながら、東梅さんに心からお礼申し上げます。
ありがとうございました
 

雪の美術館(哲×鉄車掌区慰安旅行)

カテゴリー:④番線:日々雑感方面 2014年9月 2日 05:30

来道3日目。次の滞在先であるニセコへの移動日。

昨夜は台風北上の影響で、風雨ともに大荒れの様相であった。
一夜明けると雨は止んでいたが、外は風が強く、空は雲が足早に流れていた。

9時にホテルを出発し、ニセコへの約300㎞の一歩を踏み出した頃、晴れ間が覗きはじめた。
途中、旭川市内に立ち寄り「雪の美術館」を訪れた。

ここは、北陸の「中谷宇吉郎・雪の科学館」とともに、以前から訪れてみたい場所であった。

しかしながら、昨今の「アナと雪の女王」の大ブームにより、施設が物語を彷彿させる云々という話題が新聞に掲載されたり、そんなクチコミがネット等で急拡大し、大人気スポットになっていた。

ブーム以前は開館休業状態で、1日に10人も来ない日もあったというので、施設にとっては大変喜ばしいことであろう。実際、敷地内に併設された優佳良織工芸館他は、閑散としていた。

旭川は三浦綾子さんの「氷点」の舞台にもなった街。
だいぶ前だが、市内の三浦綾子記念文学館を訪れ、「氷点」にも登場する外国樹種見本林に囲まれた独特な形の建物が印象に残っている。

車掌長は「雪」がひときわ大好きだ。
雪一面の景色を見ると、心が癒される…

それはあたかも、雪の下にある世俗の汚れ全てを覆い尽くすかのような錯覚が、そのように感じさせるのかもしれない…

雪の美術館は、建物に入って入場券を購入すると、六角形の螺旋階段を降りるのが順路。
地下18mまで62段を降りてゆくと、ヒンヤリした空気を感じる。

そこは、雪の回廊となっており、ガラス1枚を隔てた向こう側には、美しい氷柱が何本も立ち並んでおり、奥へ奥へと誘われるようであった。

雪をイメージして作られたという美術館だけあって、この雪の回廊あたりが特に、先述の人気映画で雪の女王が住む雪の城のイメージに合致するのだろう…と思われる。
この冷涼感も、なかなかリアルだ。

やがて、スノー・クリスタル・ミュージアムの展示物があるエリアに到着。
ここでは、自然の芸術と言われる「雪の結晶」の様々な姿を堪能できる。

掲示物の説明によれば、人工雪の実験に成功した中谷宇吉郎教授は、雪の結晶が、高い上空の気温や水蒸気の量、雲粒の分布などの気象条件によって、その姿が色々に変わることを証明したとのこと。

そして、地上に降りてくる雪の結晶の形を見て、高い空の気象状況を知ることができ、それを「雪は天からの手紙」と表現したそうだ。

展示の見学を終えると、音楽堂や雪の館などの空間が現れた。
ここは貸しスペースにもなっており、演奏会や食事等で利用できるという。

地下にこれほどの空間があるのも、不思議な感じがするが、ここで聴くピアノやフルートあたりの演奏も素敵だろうなぁ…と想像してみた。

ふと、時計を見ると11時過ぎ。
もう少し見ていたかった名残惜しさを感じながら、旭川駅へと急いだ。
理由は、11時から発売される人気駅弁「かにめしどんぶり」を購入したかったからだ。

「かにめしどんぶり」を知ったのは、3日前に乗車したカシオペアでのこと。
個室内に備え付けのJR北海道の車内誌で、駅弁紀行という記事を見て、「グッと」きた。

昨年発売と新参者だが、8月限定発売というのが、わざわざ「食べねば!」という気にさせた。
そして、その記事の中で発売が11時であることも知ったが、「なくなり次第終了」という文字が気がかりであった。

いざ、11時半に旭川駅に到着し、お目当ての売店に駆け込むと、残り1個であった。
すぐさま手に取り1,180円と引き換えに、会いたかったものに会えた喜びを味わった。

道央自動車道に入り、砂川SAで昼食としたが、そこで中身と対面し賞味…
蓋を開けて、まず一番目をひいたのはカニ爪!
しかも、爪の外観は観賞しやすい姿のままで、かつ身を穿(ほじ)りやすいようにカットされていた。

また、荒めに解(ほぐ)された、脚の棒むき身も食感がよく、添えつけのイクラとのマッチングが絶妙であった。
小ぶりなどんぶりだったが、専務車掌と分け合いつつ、あっという間に完食。

その余韻を引きづりながらニセコを目指し、夕方早めに宿へ到着。
佳き移動日であった。
 

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