47という数字

カテゴリー:④番線:日々雑感方面 2015年2月19日 05:56

47という数字が好きだ。

パッと、思いつくのは「47都道府県」。
子どもの頃、初めて47都道府県を全て言えたのが、小学校3年生。
これは時刻表好きだったことが明らかだ。

記憶では、小学校3年生で居住する市区町村、4年生で同都道府県、5年生で日本、6年生で世界のことを社会科で学習したように回想する。

また、47は「素数」であることも好きな理由の1つ。
素数とは、1とその数字以外で割ることのできないもの…

こういう個性の強い数字というのは、なんだか意味もなく愛おしい。

ところで、背番号47といえば、今年、福岡ソフトバンクホークスの監督をなさる工藤公康さん。
48歳になるまでの30年間をプロ野球でご活躍し、その力強い姿には心打たれるものがあった。

末筆ながら、今日は車掌長の47歳の誕生日。

大好きな素数である歳を、一日一日、大切に過ごしてゆきたいと思う朝であった…
 

コメント(2件)

希望者挙手さんからのコメント(2015年2月20日 01:35投稿)

日付が変わってしまいましたが、お誕生日おめでとうございます。

47と聞いて私が思い浮かべたのは、「Hakuba47(白馬フォーティーセブン)スキー場」です(笑
スキーヤーの間では「よんなな」と呼ばれ親しまれています。
たしか、4シーズン7デイズ、1年毎日楽しめるリゾートという意味だったと思います。

若い頃は40代は色々な意味で大人、年輩といったイメージでしたが、いざ自分がそうなってみると、50を目前にまだまだ未熟だなと思います。

今日の新聞のテレビ番組欄で「蜷川幸雄と老年俳優たち」という番組が紹介されていて、その文中に「生きることは、きっと変わり続けることだ。たとえ何歳になっても」という言葉がありました。

車掌長も私も変化の大きな人生ですが、1年毎日が充実した素敵な「よんなな」となりますように。

車掌長さんからのコメント(2015年2月20日 05:16投稿)

希望者挙手 様

毎度ご乗車ありがとうございます

この歳になって誕生日にお祝いメールをいただき、お恥ずかしながらも嬉しく思います。
重ねてお礼申し上げます。

「4シーズン7デイズ」で1年中とは、素敵な47の由来ですネ。
車掌長はそのスキー場のことは知りませんでしたので、ますます「47」好きになりました。

希望者挙手さんが仰る通り、車掌長も子どもや学生の頃、40代の大人とは、もっともっと「大人」のように考えていたました。

いざ、自分が到達してみると、まだまだ「子ども」っぽいなと痛感します。

ところで、「生きることは、きっと変わり続けることだ。たとえ何歳になっても」という言葉も、共感いたします。

それは、大袈裟かもしれませんが、「人間」や「自分」における可能性の無限さを表しているように思います。

山本有三も「路傍の石」の中で、このように綴っています。

たったひとりしかいない自分を
たった一度しかない一生を
ほんとうに生かさなかったら
人間、生まれてきたかいがないじゃないか

学生時代に出逢った言葉ですが、いまも、胸のどこかに置いてあり、苦労や試練の渦中にあった際は、どこからともなく表出します。

人は「自分の意志」で生まれてくることはできません。

しかしながら、この「時代」や、この「国」に生まれた「自分」の意味をじっくり考えてみることは、とても大切なことだと思います。

世界を見回せば、自分の意志だけでは、「生きる」という最低限の営みさえ困難な人がたくさんいます。

それは、食べることもままならない貧困や、戦禍に命を脅かされる状況など様々です。

日本も1億総中流と言われた良き社会から、貧富の格差が拡大し始めたと言われる昨今ですが、まだまだ、自分の「努力」や「志」で道を切り拓ける可能性やチャンスが残っている国だと感じます。

そして、自分に対して悲観せず、他人や世間と比較せず、自分が良しとする「心の豊かさ」を持って日々を過ごすことが、大切なのではないか…と

そんな境地に辿り着けたのは、40代になってからでした。

もしこれをお読みの10代、20代、30代の方がいらっしゃれば、このことに気づく時点が早ければ早いほど、その後の人生に利することを、経験からの教訓とし、エールを送らせていただきます。

(追伸)
希望者挙手さん、先月は誕生祝のプレゼントをありがとうございました。大変気に入ってしまい「家宝」になっています。

また、それと同時に「新幹線鉄道開業50周年記念千円銀貨」もお譲りいただき、誠にありがとうございました。

千円銀貨は車掌長も昨秋申し込みましたが、申込者が多く抽選となり、その倍率は11倍を超え、惜しくも購入できませんでした。

そんな貴重な記念硬貨を希望者挙手さんは、ご自分が当たったものをお譲りいただき、大感激でした。

この場をお借りして、心からお礼申し上げます
ありがとうございました

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キリ番

カテゴリー:④番線:日々雑感方面 2015年2月13日 04:36

昨日、毎日新聞が創刊50000号を迎えた。

創刊は1872(明治5)年2月21日とのこと。(2/21は旧暦)
日本の新聞社で5万号を迎えたのは「初」と書いてあった。

調べたら読売が1874年、朝日が1879年の創刊であった。
明治5年といえば、車掌長はすぐ「鉄道開通年」を思い浮かべるが、今日まで143年もの間、毎朝新聞を発行してきた歴史には敬服する。

また、宅配制度によって各戸(かっこ)に配達されるのも、日本の新聞社の美点だと思う。
この場を借りて、日々新聞を配ってくださる皆様に、心から感謝とお礼を申し上げたい。

もちろん、世界にも配達の仕組みはあるようだが、ある程度の人口を擁する都市や町に限って運用されているようだ。

ところが、日本は離島やへき地でも、各戸へ毎日届けてくれる。
それこそ、1軒のお宅へ届けるのにバイクや車で数十分を要するような場合でも…

それは、今日の経済重視社会において、「非効率」や「不合理」と言われるだろう。
また、ネット社会においては、スマホ等で電子購読できると言う御方もいるだろう。

どちらも時代に即した意見であり、考えだ。
わざわざ「人」がその「労力」と「時間」と「お金」をかけて届けることに釣り合うか…と、経済的見地から疑問を抱くのも理解はできる。

しかしながら、新聞に限らず郵便や鉄道という非常に公共性の高い社会サービスは、「儲かる」「儲からない」という「白or黒」で判断すべきではない、と車掌長は考える。

そして、そこにはどんな事情の人が住んでいるのか…という想像力を膨らませてほしいと願う…
皆がみんな、PCやスマホを所有し、車を運転し、自力で歩ける人ばかりではない。
また、生まれ育った土地に愛着があり、住み続けたい人も沢山いる。

効率が悪くても、人が少なくても、そこに住んでいる人へ全国同一料金で読めたり、届けてもらったり、乗れたりすることが、「日本に住んでいて良かった」と、言える、思える、誇れるような、そんな国であり続けてほしいものだ。

次に毎日新聞が10万部を迎える頃、いったいどんな社会になっているのだろう…と妄想する。
今後、よほど生命科学が発達して寿命が延びない限り、現在生きている者が、その時代を確かめることは不可能だが…

車掌長が所有しているJTB時刻表も、古代エジプト文明のパピルス巻物とは言わないが、当時はこんな「紙」で、鉄道の時間を調べてました…のような「史料」になっているかもしれない。

なにはともあれ、日本で最初に5万号を達成した毎日新聞に、今後もエールを送りたい。
 

コメント(2件)

希望者挙手さんからのコメント(2015年2月15日 02:06投稿)

こんばんは

来年の私の大台の誕生祝企画、ありがとうございます。
今から楽しみに待たせていただきます!

ところで、50,000号、143年という数字から、私は四万六千日(しまんろくせんにち)を思い浮かべてしまいました。(キリ番とはちょっと違いますが・・・笑)

浅草寺で「ほおずき市」が開かれる7月9日と10日は、四万六千日の縁日とも言われ、この日に参拝すると46,000日(126年)分のご利益があると言われています。

ちなみに、一升分の米粒が46,000粒あることから、一升と一生をかけて四万六千日といわれるようになったそうです。つまり、一生分のご利益があるということですね。

そして、この二日間限定で授与される「雷除札」というお札があり、私、一昨年にこのお札を授かったのですが、その頃から人生の流れが良い方向に戻り始めたのかなと、今になって感じています。

126年分のご利益があるのなら、もっと早くお参りしておけばよかったと思ったりもしますが(笑

実は、50,000号と聞いて思い浮かべたものが、もう一つ・・・
ハナ肇とクレイジーキャッツの「五万節」です(笑
「サバ言うな、このヤロー!」のフレーズが耳に残る曲ですが、たくさんあったことを五万回など、五万という数字で見栄を張るという面白い曲です。
今度、機会がありましたら、カラオケで唄いましょうか?(笑

やはり、毎日新聞の50,000号は偉大な数字ですね。

車掌長さんからのコメント(2015年2月15日 06:53投稿)

希望者挙手 様

毎度ご乗車ありがとうございます

しまんろくせんにち…
今回も大変素晴らしいコメントを、ありがとうございました。

数字にちなんだ日本文化の奥深さや、人々が自分では操作できない災いを避ける願いは、どんな時代になっても変わらない人間の営みを尊くを感じます。

希望者挙手さんも、そのご利益があったようで、大変喜ばしく読ませていただきました。

ところで、一升の米粒の話からの連想ですが、宝くじの当選確率を米粒に例えますと、このようなイメージになるようです。

仮に、一升がお米46,000粒としますと、一升はお米約1.5㎏だそうですが、ジャンボ宝くじの1等当選確率は、10,000,000分の1と言われています。

そうすると、217升余、つまりお米325㎏余中の僅か1粒が1等賞となります。
普段、スーパーで見かける5㎏の米袋にしてざっと65個分。
この中に1等賞であるお米1粒があるということになります…

う~ん…
やはり宝くじとは、買ってから当選番号が発表されるまでの「夢を見る時間」を買ったのだなぁ…と痛感。

末筆ながら、久々にカラオケも良いですネ!
その「五万節」も、ぜひ聴きたいと思います!

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悠久なる世界遺産と地雷の国を訪ねて

カテゴリー:④番線:日々雑感方面 2015年1月29日 04:15

昨日、カンボジアから帰国した。

一般的に"カンボジア"と聞いて連想できるのは、「アンコール・ワット」や「アンコール・トム」といった世界遺産にも登録されている遺跡群だと思う。

そこだけがあまりに突出しすぎて、その国でどんな人々がどのような生活を営み、どんな通貨が使われ、どのようなモノを食べたり、衣服を着用していたりするのか…それは車掌長も行ってみて初めて気が付いた。

先週末から5日間の旅程で訪れたカンボジアは、車掌長がお世話になっている会社の社員旅行。
各社員が毎月2000円を2年間積み立て、あとの費用は会社が負担して下さり隔年で実施している。

行先は経営者の希望だが、「あとはヨロシク!」と企画から手配、添乗までを車掌長と旅行会社勤務経験のある同僚O氏に一任される。

老若男女の参加者9名分のビザ取得手続きや航空券及びホテルの手配と、現地観光を考えながら行程を組み立ててゆく事前の作業は大変楽しかった。

手配を進める中で参加者の希望を叶えるべく、ハプニングや紆余曲折は色々あったが、最終的には、往復バンコク経由のJAL便&LCC(格安航空会社)と、現地では超高級ランクのホテルに宿泊し、全行程をプライベートチャーター車両で日本語ガイドを付けても、旅行会社で販売されているツアーよりも安く収めることができた。

観光においては、カンボジアの「陽」の面である世界遺産の遺跡を巡った。
前述の代表的な2遺跡に加え、「タ・プローム」や「ベンメリア」という、遺跡が長い時間をかけて大木に浸食される姿を目の当たりにしたり、「バンテアイ・スレイ」では繊細かつ優美なレリーフを施した遺跡に魅了された。

一方、「陰」の面においては、カンボジアを訪れるなら知っておかなければならない「地雷」についてもコースに盛り込んだ。

カンボジアはつい30~50年ほど前まで、国内の政情悪化や近隣諸国との紛争に巻き込まれ、激しい戦禍と内戦の末、気の遠くなる数の地雷が、カンボジアの大地の至る所に地表浅く埋められた。

戦争が終わっても、田畑で作業する人や無邪気に遊ぶ子どもたちが大勢、無残に脚や手を失ったり命を落とした悲しい歴史がある。

そんな祖国の姿を見て、自らも戦闘下において一兵士として地雷を埋めたというカンボジア人が、地雷を探しては安全に爆破処理し、地雷で親を失った孤児や手・脚を失った子どもを引き取り育てている男性がいることを知った。

彼の名は「アキ・ラー」。
そして、彼が処理した地雷の一部を展示し、被害に遭った子どもたちのことを知ってもらうために、プライベートで小さな博物館を建て、その入館料や寄付で子どもたちを育てている「地雷博物館」を訪れた。

彼に会うことは留守でできなかったが、見せてもらったVTRの中で、地雷を見つけ爆破処理し、子どもや人々を地雷の恐怖から救うことが、僕の責任であり償いであると語っていた。

これまでに彼がひとりで処理した地雷は3万個とも言われるが、そもそもカンボジアに仕掛けられた地雷は400~600万個以上と推定され、埋設密度が世界一となるそうだ。

そして、これらを安全に処理するのは、ほとんどが手作業となる…

もちろん、カンボジア政府もアキ・ラー氏の奮闘とは別に、世界中から非営利組織等の支援も受けているが、カンボジア全体で毎年処理できる数は年間で4~5万個とのこと。
このペースだと、カンボジアから地雷を撲滅させるには、まだ100年近くはかかるそうだ…

「世界遺産」と「負の遺産」。
世界遺産で世界中から多くの観光客が訪れ、国が経済的にも発展してゆく「陽」の未来。
一方、地雷を安全に処理するために、莫大な時間と費用を要する「陰」の過去。

その両眼で「カンボジア」という国を見つめると、単に物見遊山で訪れて「良かった」では終わらない何かが見えてくる…

滞在最終日、参加者全員で1台ずつ四輪バギーを借り、自ら運転して広大な田畑の広がる凸凹な道を走り、世界遺産で賑わう恩恵が見当たらない農村や集落を訪れた。

砂ぼこりを巻き上げながら通過するバギーの1台1台に、無邪気に手を振る子どもたちの姿をたくさん見かけた。
そして、こんな話をガイドから教わったことを思い出した。

カンボジアにも一応義務教育があるが、農村部ではあまり機能していない…と。

小学校の就学率こそ90%ほどあるが、卒業できるのは半分くらいだという。
理由は、家庭が貧しかったり、子ども自身が働かなければならなかったり、学校まで遠すぎて通えないetc…

また、70年代のポルポト政権下において教育制度は廃止され、学校は破壊、教師は虐殺されるなど、暗黒な時代が今も影響し、学校自体や教師も圧倒的に不足しているそうだ。
だから、1つの学校(校舎)を午前は小学校として、午後は中学校として使っている場合が多いと言う。

この手を振る子どもたちが、学校に通えて字を覚えられるようにならなければ、いくら地雷が埋まっていることを警告する表示や看板があっても、理解できないだろうな…と思ってしまった。

旅行自体は無事に終わった今、皆さんにも喜んでいただけ、まずは任務完了の安堵感はある。
また、車掌長自身にとっては、今後の「生き方」を考える上でも、何か小さなヒントというか、心の機微を見つけられたような…

真夏のような国から真冬の日本に戻った時、不思議と清々しい心持ちを得たように感じた。
今回は、そんな佳き旅だったと思う。

(追伸)
今日がバースデーイヴの方は、世界中に沢山いますが、中でも「哲×鉄」ご愛読の方に心からお祝い申し上げます。
どうぞ佳き一年となりますように…
 

未年に思う

カテゴリー:④番線:日々雑感方面 2015年1月 9日 04:31

中学1年の春、或るTVドラマの主題歌のフレーズにこんな歌詞があった。

♪おとなしい羊の群れから 飛出したいのだ

これは人気ドラマ金八先生に続いた新八先生こと、岸田智史さんが歌う「重いつばさ」の一節。

1980年4月といえば、車掌長が時刻表を毎月買い始めた時期。
当時は、徐々に高まりつつあった「自我」というものを、自分でも意識し始めた頃でもあり、自然にこの曲や歌詞に深く共感した時でもあった。

羊は英単語において、複数形の存在しない動物として知られている。
理由は、一匹ではなく「群れ」で行動するので、数える対象にならないと聞いたことがある。

なるほど、漢字においても「群」という字には「羊」が入っている…

また、現在朝日新聞で連載されている、夏目漱石の「三四郎」においては、「ストレイ シープ」という言葉が登場する。
これは「stray sheep」、つまり"迷える羊"として、この小説のキーワードになっている。

このように話を進めてしまうと、羊とは何と主体性のない動物かのように囲いこんでしまう。

しかしながら、一方でこの動物は、その群れをなして行動する習性から、「家族の安泰」や「平和」をもたらす縁起物としても、人々から愛されている。

車掌長も今や、こちらの意味合いで「羊」や「未年」を眺めながら、目を細めるようになった。

羊年といえば、車掌長の同級生の多くは「年男」「年女」である。
車掌長は早生まれのため、学年は一緒だが、干支は1つずれて来年が「年男」だ。

干支(えと)はご存知のように12年で一回りするが、細かく言うと「十支(じっかん)」と「十二支(じゅうにし)」の組み合わせで60年周期となり、その一周がいわゆる「還暦」となる。

車掌長の同学年はこれで十二支を4周し、いよいよ5周目、自分たちが生まれた「丁羊」や「戌申」となる"還暦"を視野に見据えた12年間を過ごすこととなる…

しかし、さすがに12年というスパンは長いので、目先の50歳にまず目が向いてしまう。

孔子曰く、「五十にして天命を知る」とのこと。

果たして五十歳になった時、天から与えられた使命を悟れるようになっているのだろうか…

現時点でそのようになれる自信はないが、まずは、いま頭の中で想い描くことを、日々一歩一歩積み上げてゆくことが大切なのだと思う。

それも、最短距離ではなく、さんざん寄り道や回り道、行き止まりを経験してきた人生の教訓として、"急がば回れ"の心持ちで歩んでゆきたい。

 

エチュード

カテゴリー:④番線:日々雑感方面 2014年10月22日 05:30

♪トゥルリラー トゥルリラー 風に吹かれて 知らない街を旅してみたい

聖子ちゃんが函館の街でポッキーを食べながら、そう口ずさんだのが1982年秋。
あれから30年余り経つが、今も秋になるとこの曲を懐かしく思い出す車掌長である。

当時は中学3年だったが、なんと旅心を揺さぶる曲だろう…と感じた。
その頃、それまで存在しなかった中学の課内授業の「必修クラブ活動」で、鉄道好きの英語教師が、車掌長が一人旅をしいてることに興味を持ってくださり、何人かの同好者もいることをリサーチし、旅行研究クラブを立ち上げてくれた。

クラブとは言っても、正規の授業時間内に行われる1コマ45分の短い時間であったが、車掌長にとっては、天国のような時間であった。
いま思えば、校内暴力が社会問題化する荒れた時代でもあったが、一方で中学の授業で好きなことをさせてくれる、のどかな時代でもあったと思う。

冒頭のフレーズで始まる歌は、ご存知の方も多いだろうが「野ばらのエチュード」。
エチュードとは、美術や音楽における「下絵」や「練習曲」といった意味合いがある。

練習曲としての「エチュード」と言えば、ショパンを連想する。
ショパンは幾つものエチュードと名の付く練習曲を後世に残しており、その全てを知っているわけではないが、中でも「別れの曲」や「革命」は大好きだ。

芸術の秋、読書の秋、行楽の秋、食欲の秋…

秋は様々な行動願望を呼び起こす季節のようだ。

車掌長も本来は「六十の手習い」であるところを前倒しして、「四十の手習い」として何かのエチュードとなるような、手ほどきを受けてみたくもなる…

いやいや、そんなこと以前に、風邪の季節も本格化するし、まずは「四十の手洗い」が先か…
などと、くだらないオチに納得した。

 

 

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