浜屋のバーベキュー弁当

カテゴリー:④番線:日々雑感方面 2019年9月 7日 16:34

先日、仕事で木更津に行った。

その前日、職場の同僚に木更津出身の者がおり、木更津でオススメのランチを尋ねると、即答で「浜屋のバーベキュー弁当」とのこと。

当日、現地での仕事を終えて昼食をとって帰る際、聞いた道を通りその店舗に皆で立ち寄った。
ちょうど、お昼どきでテーブルの上に積まれた「バーベキュー弁当」を手にし、5名それぞれのお腹に見合うボリュームのものを購入していた。

ちなみに車掌長は、肉もご飯も増量の「大盛」で920円也。

高速を走ること15分、某SAに入り待望の弁当を口にすると、なんとも美味であった。
国産豚のロースを一枚一枚、秘伝のタレを染みこませ直火で焼き上げた肉と、同じタレがかかったご飯との相性が絶妙で、どんどん口の中に入ってしまった。

包み紙の裏には、この弁当の説明が記されており、箸を動かしながら読んでみると、この「バーベキュー弁当」は、もともと木更津駅の駅弁として誕生したことがわかった。

それを知り、車掌長は尚更、この弁当が気に入ってしまった。

早速、家に帰り、説明にあった駅弁誕生の頃(昭和37年)の時刻表を調べたら、しっかりと木更津駅の特殊弁当としてその名称が載っており、感動してしまった。
ちなみに当時の値段は150円。

当時は内房線ではなく、房総西線という路線名で、特急・急行列車は存在しないが、準急「内房」5本と同「さざなみ」1本が毎日走っていた。

列車番号のマークを見ると、「D」とあるので電化前であったこともわかる。

準急で3~5分、普通列車で5~10分程度の停車時間があったから、駅弁を買う時間は充分にあったし、駅の賑わいも思い浮かぶ…

今では駅弁としての販売は終了しているが、街中の店舗で元駅弁が地元の皆さんに親しまれ販売されているのは、とても喜ばしく思った。

またぜひ、木更津再訪の折は、この弁当を購入したいと思う。

紹介してくださった同僚のT殿、どうもありがとう。


 

朝の新橋で憩いのひととき

カテゴリー:④番線:日々雑感方面 2019年8月24日 03:56

「3卓、アイス、ガム無し」と、ウエイトレスがカウンターに告げる。

昨日、仕事で汐留に行った際、同僚との待ち合わせよりも1時間ほど早く新橋駅に着いた。
時間を潰すには、あの店がいい…

車掌長の足は、新橋駅前ビル1号館の「パーラー・キムラヤ」に向かっていた。
入店しどこへ座るかは客の自由、お気に入りの水槽横の席は埋まっていたので、カウンター前の4人掛けに座った。

朝食は済ませていたので、アイスコーヒーのみを注文。
ここは常連であれば、アイスコーヒーはガムシロップの有無を注文時に告げる。

アイスコーヒーが席に届くまで、店内の雰囲気を味わう…
店内は喫煙もOK。いまどき紫煙くゆる店など、絶滅危惧種の類に属するであろう。

車掌長は喫煙しないが、子どもの頃から父が家で吸うタバコの煙の中で育ったようなもので、受動喫煙など一切気にしない。

また壁に目を向けると、この模様がなんともモダンでたまらない。
帝国ホテルのオリジナルコーヒーカップの「フランク・ロイド・ライト」のデザインを連想してしまう。

やがて、アイスコーヒーが届き、店用の新聞を読みながらストローで啜った。
至福のひととき…

カウンターを見れば、「ライブキッチン」なんて洒落た言い回しは無用の「丸見え」の状態で、狭いスペースをムダの無い動きで黙々と注文に応じる姿が心地よい。

待ち合わせの時間も近づき、卓上の趣きある伝票を手に取り済ませた会計は370円也。
店の入口にあるショーケースを眺め、今度は「プリンローヤル」を食べようなどと目を細めた。

歩いて数分の汐留エリアに入ると、インテリジェンスなタワーオフィスビルに次々と足早に吸い込まれる人の波に、さきほどのゆったりした憩いの時間が泡沫(うたかた)の出来事のように思われた…

 

復刻鳥めし

カテゴリー:①番線:鉄道(JR・私鉄)方面 2019年8月13日 05:46

昨日、お盆休み中ではあるが、仕事のため八王子へ向かった。

同僚と7:30に駅付近で待ち合わせしていたが、7時前には八王子駅に着いていた。
ちょうど、お腹が減ったので、駅弁屋のショーケースを覘いたら「復刻鳥めし」が置いてあった。

昔、車掌長が子どもの頃の「鳥めし」は、新宿駅で調整元の田中屋が販売していた。
値段は400円だったが、他の弁当が700~800円だったのに比べ安く美味であった。

今回目にしたのは、懐かしい包装紙を現代風に取り入れコンパクトな装丁であった。
価格は680円(税込)、やはり他の駅弁が1,000円程度するのに比べとても良心的だ。

せっかくなので、ホームのベンチで列車を眺めながら食そうと、中央線下り4番線に戻った。
夏休みに行楽・帰省客、登山客が目立つホームには、次々と臨時の特急列車が滑り込み、賑わっていた。

自分の荷物を背負ったリュック姿の子どもが燥(はしゃ)ぎ、それを叱る親の光景も、日常で叱るよりも大らかで、日本の夏を思わせ微笑ましい…

やはり、「どこかへ行く」という旅立ちのひとコマは、子どもはもちろん、大人である親にとっても非日常な楽しみであることが見受けられる。

とくに、鉄道の旅は、居住空間の延長のようなマイカーでの移動よりも、「非日常的」でありエキサイティングな出来事だと思う。

また、他の人と移動空間を共にするという、マナーや社会性も教えることができる。

そんなことを思いながら、懐かしい「復刻鳥めし」を頬張りながら見ていた。

たしかに懐かしい駅弁だが、味が濃く感じたのは歳のせいか…
などと思いつつも、脇に添えられた缶詰のみかんに、昔の駅弁のスタイルを思い出した。

そう、なぜか昔の駅弁は、缶詰の「みかん」や「さくらんぼ」が添えられていた。

15分ほどの時間であったが、仕事前におもいがけず、心和む朝食を体験できた。
この日の代休は、公休日と繋げて小旅行に出かけたくなった…
 

冷房車

カテゴリー:⑤番線:feel the season方面 2019年8月 2日 05:28

半月前の梅雨寒から一転、異常気象による猛暑が今年も列島を襲っている…

いまや、エアコンは命を守るために使用が必須となっている。
熱中症予防のため、就寝中も入れておいた方が良いそうだ。

今朝の新聞、或る記事のくだりで鉄道の冷房について触れていた。
それによると、国鉄で初めて「冷房」が導入されたのは1936年(昭和11)、特急「燕」の食堂車とのことだった。

当時、冷房は展望車(1等車)や食堂車など特別な車両の利用者のみが享受できる、大変贅沢な設備であった。

また、同記事によれば、庶民の通勤電車での初登場は、1970年7月31日の山手線とのこと。
車掌長も子どもの頃、乗った列車が「冷房車」だと、望外な歓びであったことを思い出す。

非冷房車は、窓を開放してホームに入ってくるが、冷房車は窓が閉まっているので、一目で判別できたし、一般家庭にもエアコンが普及していなかったので、その快適空間の印象は殊更であった。

そして、列車の冷房で懐かしいのは、夏休みに新幹線や特急に乗ったとき、あの独特な「冷房の香り」がしたことであった。
 
あえて好意的に「香り」としたが、この臭いの形容は、体験した者でないと上手く伝わらないかもしれない。

油のような…消毒液のような…カビ臭さでもあるような…、換気も充分ではなかったと思うが、それでも蒸し暑い外気とは違う、快適な冷たい空間の懐かしい香りであった。

いまや、地下鉄でも冷房が当たり前となり、快適この上ないが、子どもの頃の普通列車や急行列車の窓を全開にして、首振り扇風機の風にもあたりながら、窓側の小さな物置に付いていた栓抜きで、瓶のコーラやファンタの清涼飲料水を頬張ったことも懐かしく思い出した。

便利、快適な「今」の生活が当たり前になってしまったが、不便であり、快適でもなかったはずの当時を美化してしまうのは、年をとったせいなのであろう…

 

タイムトンネル

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2019年7月13日 05:15

 先日、伊豆を日帰りした。

車掌長の母が、看護学校時代の同窓会旅行として、8名で1泊2日の旅行をした。
その際、手配を手伝った成り行きで、2日目午前の観光をレンタカーで案内することとなった。

当日、東海道新幹線のこだま始発で東京から熱海へ向かったが、幸運にも700系!
来春には引退する予定のようだが、いまや運行ダイヤ上、希少となった車両に乗れたのはラッキーであった。

平日朝の下りこだまに乗車した経験は無かったが、意外に混雑しており、新横浜を出ると自由席には立ち客も見受けられた。

熱海から伊東線に乗り換え、通勤・通学客に交じって一駅一駅伊東へと南下した。
一昔前の通学時間帯のローカル線は、友人同士のお喋りで賑々しかった記憶があるが、いまは一人一人がスマホに目を落とし、指先で画面を擦っている姿ばかり…

大勢の人がいるのにサイレントな車内は、少々薄気味悪い印象を得た。
そんな光景を目に映し、遠くない将来、「人と話す」コミュニケーション力をリカバリーする仕事が重宝されそうだなぁ…などと、自身の老後の活路を考えたりもした。

伊東駅でさらに伊豆急行へと乗り換え、伊豆高原駅で下車。
構内の留置線には、まもなく北海道で活躍するロイヤルエクスプレスを見ることができた。

同駅でワゴンタイプのレンタカーを借り、元看護学生たちの待つ某温泉のホテルへ向かった。

朝確認した天気予報は芳しくなかったが、伊豆半島は梅雨の晴れ間が広がった。
だが、海に目をやると、白波が立っており、風も幾分強そうであった。

本来の予定では、伊豆半島最南端の石廊崎を訪れることになっていた。
ここは、今春オープンした観光施設「石廊崎オーシャンパーク」があり、パワースポットとしても人気のある「石室神社」とともに、車掌長も行ってみたい場所であった。

しかしながら、石廊崎は強風の名所でもあり、この日は断念。
急遽予定を変更し、旧天城峠と河津七滝(ななだる)に行くこととした。

元看護学生たちも、車掌長にお任せという絶大な信頼を寄せてくださり、かえって、観光を楽しんでいただきたいという気持ちに火がついてしまった。

さながら、観光タクシーの運転手気分で、道の駅での買い物や、旧天城トンネルを歩いて「天城越え」をしてもらい車を回送したり、河津七滝最大の大滝(おおだる)を案内した。

この辺りは、車掌長が大学4年の秋、卒業論文を書くために1週間ほど滞在した宿があり、土地勘があることも幸いであった。

お腹も空く頃、里山でツルツルの名湯と昼食を楽しめる某温泉に一行を連れてゆき、そこで降ろして車掌長の案内は終了した。

伊豆急下田駅で車を返し、185系の踊り子号で帰路についた。
国鉄時代の車両が現役で活躍している姿は、何とも勇気づけられるが、そろそろ引退の話も耳にしており、労いながらの乗車となった。

また、東海岸の車窓を眺めながら、乗車前に購入した駅弁「金目鯛の塩焼き弁当」が、誠に美味であった。

青い海を見ながら、駅弁を頬張りつつ、今日の旅を回想すると、車掌長が初めて旧天城トンネルを訪れた時のことが頭に浮かび上ってきた。

それは、車掌長が高校3年に上がる春休みだった。
なぜだか急に、父と伊豆へ1泊2日の旅に車で行くことになり、伊豆半島を一周した。

家を未明に出て、早朝の誰もいない城ヶ崎海岸の吊り橋を渡ったことや、満開の伊豆高原の長い桜並木の下を清々しく走ったこと、石廊崎、堂ヶ島などの名所を探勝し、上述の河津七滝や旧天城トンネルも訪れた。

現在、トンネル内はガス灯を模したお洒落な照明もあるが、当時、トンネル内に照明は無く、歩いて反対側へ行くには車の往来も考えると危ない印象であった。

そんな隧道を、昔は伊豆の踊り子が通ったことを妄想し、車でゆっくりと抜けた。

あれから35年ほどの時間が経ち、父も80歳となった…

あのとき、まだ車の運転ができない車掌長を隣りに乗せ、快活にハンドルを握り、西伊豆の細い海岸線の道や、アップダウンも激しい山道を難なく運転していた姿は、もはや記憶の中でしか見いだせない。

いまはまだ、運転免許は保持しているものの、昨今の高齢ドライバーの置かれた状況を勘案すると、自主返納してほしいと切に願ってしまう。

今回、通り抜けた旧天城トンネルは、そんな昔の父を思い出させてくれた「タイムトンネル」でもあったように思う…

 

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