JTB時刻表4月号の表紙に思う

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2014年4月 7日 05:32

4/5(土)・6(日)の両日、東日本大震災で一部不通となっていた三陸鉄道北・南リアス線が相次いで運転を再開した。

新聞やテレビのニュースでは、それを待ち侘びた沿線住民の皆さんや再開に尽力した方々の喜びの顔が溢れていた。
東日本大震災で壊滅的なダメージを被りながら、3年余りで全線(107.6㎞)の運転再開までのご苦労は、並大抵のことではないことは察するに余りある。

ところで、JTB時刻表の2014年4月号の表紙は素晴らしいものであった。
三陸鉄道社員の皆さんと気動車が表紙いっぱいに写り、「再び走り出す!三陸鉄道」という見出し。

そして、巻頭のカラーページにおいても、4頁にわたって三陸鉄道の運転再開を応援する特集を組んでいる。
さすが、日本を代表する総合交通機関の時刻表であると感嘆したり、誇らしく思ったりした。

一方、JR時刻表の表紙は鉄道写真すらない、非常に殺風景な文字だけのものであった。
3月下旬に店頭に並んだ際には、「あれ?今月はJRの時刻表が積まれていない!?」と、思うほど目立たなかった。

たまたまこの号だけ奇を衒(てら)ったのか、今後このようなスタイルでゆくのかは不明であるが、時刻表の顔である「表紙」を文字だけにしたのは、惜しいなぁ…と痛感。

末筆ながら、未だ再開目途の立っていないJR山田線(宮古~釜石)や、とりあえずBRTで運行再開を始めた大船渡線、気仙沼線がレールで結ばれ、列車が走ることを願う。

そして、そのレールの上を、東京発三陸沿岸経由青森行きなどの列車が走る空想をしてしまう…
運行する会社の枠組みを超え、そんな列車を走らせることができたなら、日本はまだまだ素晴らしいと思う。

 

コメント(2件)

希望者挙手さんからのコメント(2014年4月 7日 21:49投稿)

遅ればせながら、開設3周年、乗務200回達成、おめでとうございます。

私は母の実家が気仙沼で、親類の多くが被災したこともあり、復興が前進することに感慨一入(ひとしお)ですが、私もJTB時刻表の今月号の表紙はとてもいいなと思いました。

三鉄の復興もそうですが、久しぶりに人と鉄道のつながりが感じられたからです。
昭和53年から63年、いわゆる昭和後期の表紙には、よく人が登場していましたが、私はこの頃の表紙が大好きです。

今月号の表紙の差が、鉄道に対する両社の想いの差でもあるのかなと思えたりしました。(観光⇔ビジネス って・・・苦笑)
JR時刻表はウケを狙って外したものと思いたいですね(笑

東京発三陸沿岸経由青森行きには、私も大賛成です!

ただ、被災地の工事現場から人が減り始め、動かない重機が増えているらしく、心配です。

車掌長さんからのコメント(2014年4月 8日 04:33投稿)

希望者挙手 様

毎度ご乗車ありがとうございます

昭和後期の日本交通公社時代の時刻表の表紙は、車掌長も大好きでした。
多くは人物を中心に位置づけ、列車や駅がさりげなくその光景を演出し、季節感や旅情、旅先やその土地に暮らす人々のふれあいを感じさせてくれたものです。

そして、鉄道というものは、人々の生活や仕事、人生の節目に寄り添ってくれていることを印象づけてくれました。

また、時刻表の表紙については、こんな言い方もできるかもしれません。
それは「時間の鏡」であると…

例えば、その当時流行っていたり好きだった曲や歌詞を久々に聴いたとき、学業の節目、恋愛、転居、就職、結婚、困難、病気、別離etc…、様々なシーンを思い出したりしないでしょうか。

同様に、昔の駅舎やホーム、過去に走っていた夜行列車などを見ては、懐かしい人生の色々な場面が脳裏を過(よぎ)る方も、少なくないように感じるのです。

その観点で過去の日本交通公社(JTB)時刻表を振り返ると、1981年8月号や1983年1月号あたりは秀逸です。
前者は今でも自慢の瓢箪棚を、地元の方が大切に維持してくれていますが、随分前に無人駅となり、駅員との語らいやふれあいは見ることができません。

また後者は、路線そのものが廃止となり、当時の表紙のように参拝客が降り立ち賑わう姿などは、記憶や写真の中にしか存在しないのです。

希望者挙手さんも仰っていただいたように、JTB時刻表には自由闊達な観点・角度から、日本中の鉄道や駅を借景に、日本人が暮らした「時代の風景」を記録できる力があると思います。

そして、そうした出版物としての蓄積が、歴史的な史料として後世に受け継ぐ価値を紡いでゆくのでしょう…

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蛙の卵

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2014年3月23日 05:36

46年余の人生で時刻表との出会いよりも早く、40年以上にわたって今も続けていることがある。

それは、お彼岸のお墓参り…
春・秋の年2回、記憶にある保育園時代から、祖父母や親、親戚に連れられて参ってきた。

途中、学生時代は愛知県の海辺に住んでいたので、春も秋もというわけにはいかなかったが、長期休みと折り合う春は暇(いとま)を見つけては、掌を合わせに上京した。

子どもの頃、祖父母が「おじいちゃんやおばあちゃんのおとうさんやおかあさんたちが、ここでねむっているよ」と言った言葉に、幼心ながらも時間が紡ぐ「つながり」というものを感じていた。
そして、そうした人々がいて、今の自分の存在へとつながっているという概念を、子どもながら理解していたと思う。

春のお彼岸は、楽しみなことがあった。
それは、池に無数に横たわっている蛙の卵。

その紐状の卵塊は、よくみると黒い粒々が不気味なほど詰まっており、それがオタマジャクシになることを祖父から教わった。

暖かな年は、既にオタマジャクシへと孵化(ふか)していることも多々あったが、先日参った際は、まだ卵の状態であった。
こんなことからも、今年は寒かったことがうかがえる…

いまは安らかに眠る祖父母の墓前で掌を合わせると、自然と感謝の念が湧きおこる。
そして、日々色々なことがありながらも、またここへ来るまでの間の無病息災を願う…

 

時が変えたもの

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2013年12月10日 05:33

先日、「哲×鉄」車掌区&保線区合同の忘年会旅行を催行した。

向かった先は京都
紅や黄色の葉をつけた木々が、いにしえの町々や社寺を彩り、心が華やいだ。

車掌見習は、風に落ちる葉を追いかけたり、来たばかりの道を戻ろうとしたりと、なかなか前へ進めない観光も楽しんだ。

一方、己の心と向き合えるのも、京都が持つ不思議な力の一つ…
幾年もの歳月を積み重ねてきた、自然と文化、人々の想いetc…
それらが、かような境地へ誘うのかもしれない。

日頃、大変お世話になっている保線区お二人との楽しいひとときは、瞬く間に過ぎた。
どんなに楽しい時間であっても、1日の長さは例外なく、正確に24時間であることを実感させられる…
今後も佳き時間、善き人生をともに過ごしてゆきたい、そう思った。

京都からの帰り道、途中で保線区お二人と別れ、日を置いた翌日
車掌長は、学生時代を過ごした知多半島へ独りで向かった。
先月、乗務日誌にも「哀しい知らせ」と題し記した、お世話になった御方のご焼香に伺いたかった。

専務車掌の実家から1時間半ほどで到着。
お世話になった頃と、変わらぬ家の構えではあったが、どの部屋も雨戸が閉められていた。

玄関へ回ると、おばあちゃんが掃き掃除をしていた。
「おはようございます」と声をかけたが、誰だかわからなかったご様子だったので、名前を言った途端、その場に座り込んで泣き崩れてしまった。

そして、おじいちゃんが亡くなり、私だけが生きていてお恥ずかしい…と目に手を当てながら、「覚えていてくれて、本当にありがとう…」と、仰った。

息子さんから喪中葉書をいただき、ご焼香に伺った旨お話すると、仏壇のある部屋へ通してくれた。
そこは、家庭教師に来た際、いつもおじいちゃんと世間話をした部屋。
おばあちゃんが、いつも綺麗に掃除をして床を磨き、縁側のガラス戸を開ければ手入れの行き届いた庭が見える部屋であった。

しかしながら、その当時とは全く違う様相…
雨戸が閉められ、物は散乱し、おじいちゃんが亡くなった時のままのお供えものが、まだ置かれていた。
鈴棒で打ち鳴らす「おりん」の中には、焼香の際に使ったと思われるマッチの燃えカスが何本も入っていたり、
線香立ての灰の上も同様であった…

おばあちゃんのいる部屋へ戻り、話をお聞きすると、痴呆があって物忘れが激しいと仰った。
そして、いまこうして眼の前で話していれば、○○さんだとわかるが、少し経てば誰に会ったかさえ思い出せないとのこと…

それでも、車掌長が今日来たことを、何度も何度も頭を下げてお礼を言いながら、始終涙が止まることはなかった。
たまに、昔の記憶が呼び戻されるのか、おじいちゃんと孫と暮らしていた時の話になっては、あの頃に戻りたいと仰った。

今では、町のボランティアの人が昼に1回食事を届けてくれるとのこと。
それを食べきれず、夕食も間に合うそうだ。
人との接触は、それくらいなのだと察した。

お喋りが大好きで、きれい好きだったおばあちゃんも、今は危ないからと火を使うことも咎(とがめ)られ、何もせず生きているだけだと言う…

そして、会話の中では「長生きして申し訳ない」と、何度も口にされた。
車掌長は、「時」が変えたものを感じない訳にはゆかなかった。

人は命を「授かり」、この世に生まれてくる。
そう考えれば、人の一生の終わりは、命を「お返し」することになるのだろうか…

自分の命であっても、それは授かりものである以上、最後はお返しするもの。
そうであれば、決して粗末にしてはならない。

車掌長自身も、ゆくゆくは、どんな形であの世にお返しすれば良いのか…

京都を訪れ、己と向き合ったことと、お世話になった方へのご焼香で気付いた「時が変えたもの」…

色々なことを考えさせられた年の瀬の旅であった。
 

楽天優勝パレードのバス

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2013年11月25日 05:56

昨日のTVニュースや今朝の新聞で、仙台での楽天優勝パレードを見た。

沿道の観衆は予想を上回り、まさに歓喜のウェーブに包まれた様子であった。
そんな中、車掌長はパレードを引き立てた脇役の存在に懐かしさが込み上げた…

それは、屋根のないオープンスタイルの2階建てバスだ。
東京の街中では「SKYバス」として、すっかりお馴染みの日の丸興業自動車が保有する車両。

「NEOPLAN」というドイツのバス車体メーカーのもので、日の丸では「コンコルド」や「アメリカンドリーム」という名称を用い貸切バスとして運行されていた。

おそらく、あのパレードで使われていたバスは、その改造車ではないか…と直感的に思った。

コンコルドは35名ほどの定員で非常にゆったりした車内であり、2階席最前列の展望は小田急ロマンスカーよりも優れていた。

また、アメリカンドリームは、1階席と2階席以外に、後部中2階席というパーティルーム形式のエリアもあった。
そのレイアウトは、それまでの日本のバスでは見たことがなく、とてもワクワクした。

もちろん、当時は屋根があり塗装も異なるが、あの独特なスタイルは優美であり、乗る楽しみに満ちていた。

車掌長のそのバスの想い出は、以前勤務していた某専門学校での職員旅行。
毎冬、忘年会を兼ねて行われる一大イベントであった。

当時、教職員500名規模の学校法人であったが、某旅行会社の担当者の尽力で、毎年日の丸が保有する2階建てバスを全車借りだし、12台を連ねての大名旅行であった。

その光景は圧巻の一言…
沿道の観衆こそいないが、道行く人はそのバスの行列にしばし足を停めて見入る人も多かった。
また、高速道路での休憩時に12台が横一列に並ぶ時は、感嘆のシーンであった。

時は流れ、今はそんな団体での行事も過去の遺産となったことだろう。
思えば、宿泊ホテルで何百畳もの大宴会場が浴衣姿の人で埋まる光景も、もはや見ることができないであろう。
巨大な宴会場は、いまや分割しても使いきれないホテルがほとんどではないだろうか。

まさに「兵どもが夢の跡」…

楽天の優勝パレードに使われたバスを見て、あのような晴れ舞台の引き立て役として活躍する余生の姿にホッとした。
そんな懐かしい想い出が蘇ったパレードでもあった。
 

コメント(2件)

希望者挙手さんからのコメント(2013年11月26日 21:53投稿)

こんばんは

NEOPLANの車体にベンツのエンジン、バスには珍しい後輪2軸で、アメリカンドリームはカッコよかったですね!
生まれ変わったら、巨大クレーンの操縦士か観光バスの運転手になりたい私にとって、憧れの乗り物です。

その東●会旅行で車掌長と撮った、アメリカンドリームの運転席の写真は今も大事に持ってますよ(笑
いやぁ、あの旅行は今となっては貴重な体験でしたね。
車掌長と私はいつも指定コースを外れてオプショナルツアーでしたが(笑

ところで、観光バスの車列といえば、関東は前から1号車ですが、関西では後ろから1号車の順番なんですよね。

関西では狭い山道などですれ違う際、後ろにあと何台バスがいるのかわかるようにということらしいのです。

しかし、あの楽天優勝パレードから日の丸興業のバスを連想されていた車掌長が凄い!

車掌長さんからのコメント(2013年11月27日 05:49投稿)

希望者挙手 様

毎度ご乗車ありがとうございます

職員旅行と言えど、オプショナルツアー(別行動)を楽しんだこと懐かしいですネ。
定番の観光スポットでの自由時間内に、希望者挙手さんと別の穴場的スポットに出向いたり、温泉を探して一風呂浴びたりしたことを思い出しました。

人生もそんな寄り道や脇道が楽しいのだと感じます。

バスの号車順の走り方、関西の方が合理的であり、わかりやすいですネ。

狭い山道での離合もさることながら、飲食施設等の駐車場においても、あと何台来るのかが誘導の人にはわかりやすいようです。

近年は関西でも通常の1号車からの順番が増えつつあるようです。何でも全国統一であったり、東京に合わせたり基準にする必要はないと感じます。

その方が、わかりやすかったり混乱が少なかったりするのでしょうが、文化的には惜しい傾向であり、面白味がないと思ってしまいます。

どうしても東京に合わせる必要性があるなら、いっそのこと、新幹線などもそうですが、東京を中心に「下り」は1号車から連なって走り、「上り」は最終号車から連ねて走るのもオツかもしれませんネ(笑)

ところで、クレーン操縦は車掌長も共感します。
もちろん、憧れの範囲ですが、職人系の高所での技術に敬服するばかりです。

そういえば、ふと思い出したのですが、日本のクレーンとヨーロッパのクレーンは、形状が違いますね。
ヨーロッパは、縦と横の組み合わせと言いますか、物干しの片足がないようなイメージです。

素人の発想で申し訳ありませんが、未来の宇宙の工事現場はどんな感じなのでしょう…

デスラー総統の「ガミラス帝国」や、プロメシュームが創った機械の体をタダでくれるという「機械帝国」の超々高層建築は、どのように建造したのか…

子どもの頃はいきなり完成形を目にしていたので、純粋に「未来的」だと感じましたが、今はその建築過程を知りたいなぁ…などと思います。(笑)

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哀しい知らせ

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2013年11月16日 04:48

昨日、家のポストに喪中葉書が届いていた。

お亡くなりになったことを知った御方は、学生時代に家庭教師をしていた中学生の御祖父様だ。
享年95歳とあった…

車掌長はその御祖父様のお孫さんと、約2年家庭教師として週2回のお付き合いをさせていただいた。
きっかけは、大学でアルバイトを斡旋する掲示板に出ていた求人案内であった。

連絡をとり、初めて伺ったときは、とにかく高校に入れるようにしてほしいというご依頼であった。
車掌長は、まずどんなお子さんなのかを知るために、勉強に入る前に一緒に話すことに時間を割いた。
ときに、ドライブに誘い、海辺で学校での話などを聞かせてもらったりもした。

そんな時間を通して、自分で勉強する習慣のきっかけさえあれば、伸びる可能性を見出した。
幸い、車掌長の苦手な理科と数学は好きな科目だと言う。

車掌長の教え方は、非常にシンプルだ。
まず直接的には「教えない」、これに尽きた。

わからない箇所を、自分自身が自覚し、自分で調べる…とにかくこれを繰り返した。
そして、自分が躓(つまづ)いた箇所、つまり勉強がわかならくなった地点へ戻って、やり直すことの意義を理解してもらった。

やがて、本人は黙々と机に向かうようになり、家庭教師の依頼時間であった2時間を何一つ質問しないようになった。
車掌長が訪問しない日もきちんと勉強していたことが、行った課題を見せてもらったり、彼の言動から察することができた。

また、夏休みには「合宿」と称して、車で旅に連れ出し、乗鞍方面へ行った。
この時の彼のイキイキとした表情は、今でも佳き想い出だ。

そして、受験の日を迎え、地元の公立高校へ無事に進学ができた。

合格を機に、彼は自宅を出て高校に近い御祖父様の家から通学することになった。
これでお役御免かと思っていたが、進学後も来ていただきたいとの申し出があった。

そのお申し出が、御祖父様からのものであった。

御祖父様は、軍隊の幹部だったとのことであったが、穏やかで丁寧な口調とお人柄は、こちらの背筋が伸びる想いであった。
現役時代は、ご自身の馬に乗り、東京の市中を駆け回っていたとのこと。

客間の床の間には、「天照大御神」の大きな掛け軸があり、昭和天皇ご成婚時の写真も掲げられていた。

毎回、御祖父様のお宅を伺うと、まずお茶を出していただき世間話を交え、それからお孫さんの家庭教師に入った。

やがて、車掌長自身が卒業の時を迎え、この土地を離れた。
それ以降、今年のお正月までいただいた賀状は1回も途切れることはなかった。

毎年、達筆な漢詩をしたためて下さり、ご自身の近況や車掌長のことを気遣ってくださる文面であった。

そんな宝物の賀状も、もういただくことはできない…

せめて、年内に時間を捻出して、お線香を捧げに伺いたいと思った。

いま、心から御祖父様のご冥福をお祈り申し上げます。
そして、これまでお世話になった、書き尽くせない感謝の意も添えて…

 

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