トンボ鉛筆100周年

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2013年2月21日 05:46

文具大手の「トンボ鉛筆」が創業100周年を迎えた。

トンボ鉛筆は1913年(大正2)、「小川春之助商店」として創業。
1927年発売の高級鉛筆のロゴにトンボの絵を用いた。
以降、トンボ印は長い間親しまれてきたが、1995年に一度姿を消してしまった。

しかしながら、このたび新ロゴが採用され、トンボ印が復活!
車掌長は嬉しさが込み上げた。

何故ならトンボ鉛筆には、車掌長の良きジンクスがあるからだ。
それは、この鉛筆で受けた試験には「落ちない」というもの…

ただ、あらかじめ誤解がないようにお断りしておくが、世間で言う超難関な学校の受験や高度な資格の話ではない。
あくまで個人的な「身の丈に合った」話としてお聞き願いたい。

車掌長は中学3年くらいから、鉛筆を愛用していた。
そして、芯は鉛筆削り器ではなく、ナイフで1本1本削っていた。
毎朝のこの習慣が、気持ちを清々しいものにしてくれた。

六角形の角を削り、次第に芯がシャープになってゆくのは至高の時間だった。
また、ふと集中力が高まることにも気が付いた。

そして、正則高校時代に、運命的なトンボの最高級鉛筆「MONO100」と出逢った。
これはトンボが創業55周年を記念して世に登場し、その12本入りのサービス品として「MONO消しゴム」が誕生したことは知る人も多いだろう。

また、この消しゴムがオマケにはもったいないほど、優れた製品であった。
後に、このMONO消しゴムが一商品となり、鉛筆よりも売れるようになったのは皮肉だが…

車掌長は黒のケースに入った黒色の最高級鉛筆「MONO100」に惚れ込み、毎回ケースで買うようになった。
確か1本120円ほどしたと記憶しているので、高校生にはかなり高価であった。
硬さは書き味がほどよく柔らかな「B」を愛用した。
軽いがフワフワした感触を抱かず、書き疲れない重さも好きだった。

やがて大学に入ると、日常の筆記用具は万年筆へと代わった。
授業も、日常のメモも全てブルーブラックのインクを装填し、ペン先は「M」という太字のものを長く使用した。
しかしながら、試験や資格受験の際は先述の鉛筆を使った。

おかげさまで、当時の旅行業の国家資格である「国内旅行業務取扱主任者」や、「一般旅行業務取扱主任者」にも、科目免除なしで一発合格できた。

今これを綴っていたら、ふと「MONO100」があるかも…と、普段使わない引き出しを開けてみた。
残り4本が入ったケースに再会!

そのケースの蓋には、今回復活したトンボのマークは上向きだが、下向きのおじぎをしたような謙虚なトンボに再会できた。
偶然ではあるが、この「MONO100」は1967年に誕生だから、車掌長とは同級生だ。

また久しぶりに鉛筆を使ってみたい…、と思った45歳3日目の朝であった。
 

 

コメント(2件)

希望者挙手さんからのコメント(2013年2月22日 00:44投稿)

私は、今もOLFAカッターで鉛筆を削ってますよ。
子供の頃は、肥後の守でしたが(笑

私は一時期、大量の文字を書く勉強をしていましたので、鉛筆の軽さは試験対策上、軽視できませんでした。
そして、私も車掌長と同じく「B」派です。
自分の筆圧に合っていて、一番疲れにくい硬さですね。

ちなみに、今のマイブームは、消せるボールペン「FLIXION」です。けっこう便利ですよ。替芯がちょっとお高めですが。

そういえば、車掌長はご存知かと思いますが、通勤途中にある本屋さんで、「旅と鉄道」の4月増刊号で「時刻表探検」という面白い本を見つけましたよ。

車掌長さんからのコメント(2013年2月22日 22:22投稿)

希望者挙手 様

毎度ご乗車ありがとうございます。

肥後守(ひごのかみ)、懐かしいですね!
僕らの子供の頃は、みんな普通に肥後守のような折りたたみ式ナイフを持っていたり、使っていましたネ。

また、十徳ナイフという大変重宝な刃物もありましたが、今ではやたら所持していると犯罪になりかねないから困ったものです。

しかしながら、希望者挙手さんも鉛筆ご愛用者とは嬉しかったです。
大量の文字を書いて覚え、達人的な電卓さばきで、難関な資格を幾つも取得されたこと、車掌長も存じております。

それにしても、鉛筆ならではの木の温もりや、滑らかで柔らかな書き味は良いものです。

鉛筆を削ることなんて、今やどれほどの子供ができるのでしょうか…

危ないと言われれば、「そうではない」とは言えません。
また、削る時間がムダと言われてしまえば、それは「価値観の違い」としか言えません。

ふと世の中を見回せば、書籍や音楽、映像など一通りのエンターテイメントが、手のひらでの操作で読めたり、聴けたり、見られる昨今…

何でも一瞬かつ簡単にワンクリックで手に入ることは、確かに便利なことです。

しかし、その便利さと引き換えに「感動」や「憧れ」「愛情」はだいぶ薄らいだと言えないでしょうか?

モノを買うまでの楽しみや、店頭で探し当てたり、手にした時の喜び、そしてそれを持ち帰えるまでのワクワク感や、家で包みを開く時の緊張感…

そんな醍醐味が失われつつあることに、一抹の寂しさを感じます。

せめて子どもたちには、そんな亜流な大人の便利さをマネしてほしくないのです。

本物や実物にしかない、リアルな素材の質感や風合い。
それを作った人の情熱や想い。
何よりもそれらを大切に扱い愛しく想う、自分自身の心の在り方etc…

そのような体験や実感を1つ1つ積み重ねて、自身が良しとする、満足できる価値観を築き上げてほしいと願うのです。

誰がやっても同じ結果を得られたり、簡単に模倣できるデジタル的な便利さよりも、自分が苦労や工夫をして得たアナログ的な価値や成果を大切にしてほしいと思います。

遠回りのようですが、そうすることが、考える力や独創性という、困難な時代を生きるために必要とされる「力」を育むように考えます。

ところで!
「旅と鉄道」の臨時増刊号、よく見つけましたネ。
車掌長も既に購入済みで、楽しく読んでいる最中です。

車掌長が中学生の頃よく読んだ、鉄道紀行文学の第一人者であられる宮脇俊三氏の、没後10周年の節目に出されたムックです。

「時刻表2万キロ」や「片道最長切符の旅」などを読み耽(ふけ)って、部分的な追体験を一人旅で楽しんだことを思い出します。

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39年前の今日

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2013年2月19日 21:00

私事ながら、今日は誕生日。
誰にも年1回、平等に訪れる歳を1つ積み重ねる記念日。

45歳にもなって「誕生日なんか…」と思いつつ、親しい友人からお祝いメールをいただくと嬉しいもの…
そんな記念日に思い出したことがあったので、一筆残しておきたい。

39年前の今日、6歳の誕生日を迎えた記憶を鮮やかに思い出した。
車掌長は両親が共働きだったので、母の産休明けから保育園に預けられていた。
保育園へは、主に母親が出勤前に連れて行ってくれ、お迎えはいつも一番最後だった。
通園は母と妹と3人でバスや電車を乗り継ぎ、40分ほどかかっていたように思う。

39年前のその日は、母が前日からの夜勤でいなかったため、父が車で出勤前に園へ送ってくれた。
車だと10分足らずで着いてしまうが、その車中での会話を今でもよく覚えている。

「今日は凄いプレゼントがあるぞ」と。
そんな言葉を信じ、その日は父が帰ってくるのが待ち遠しかった。

父は大きな包み紙の箱を持ち帰った。
それは西ドイツ製の「メルクリン」という、世界的に有名な鉄道模型のブランド品だった。

HOゲージと呼ばれるサイズで、繋ぐと円形になるレール12本と、機関車と客車、そして「トランス」と呼ばれる制御機器が入っていた。
今でいう「スターターキット」のような基本セットだった。

お金の価値や比較概念がハッキリわからない歳だったが、幼心ながらに高価なものであることを直感した。
そして、その緻密な作り込みから、本来は子どものおもちゃではないこともわかった。
だが、当時誰も持っていないような、そんな鉄道模型をプレゼントしてもらい、とっても嬉しかったことを覚えている。

それ以降、お金を少しずつ貯めては客車や貨車を1両ずつ買ったり、レールを伸ばしたりしたものだが、やがて時刻表の使い方を教わってからは、興味のウエイトは次第に時刻表へとシフトしていった。
また、父から誕生日のプレゼントをもらったのは、その後なかったが、この唯一のプレゼントが一生の想い出となったことに心から感謝している。

話は変わるが、昨日から久々にアーカイブ本線の駅設置工事(各号の読みどころ)を再開した。
その再始点は車掌長自身の生まれた年月である1968年2月とした。
気ままな工事だから、残り550号ほどの駅を完成させるのには2~3年はかかるだろう…

しかしながら、「千里の道も一歩から」の言葉通り、継続してゆけばいつしかゴールは眼の前に訪れるもの。
そんな日を楽しみながら、各号の読みどころを独自の視点で綴ってゆきたい。

決して立派な内容ではないが、書店に並ぶ本にはないような、時刻表との時間旅行を楽しめる話題を丁寧に拾ってゆこうと思う。

皆様もどうぞ、気楽に気長に「哲×鉄」とお付き合いいただき、共に佳き歳を重ねてゆければ…と切に願った45回目の誕生日…

 

少年の日の想い出

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2013年2月 9日 06:59

昨日の新聞で、第4回日本語大賞を受賞した或る小学生の記事に目が留まった。

「日本語大賞」とは、NPO法人日本語検定委員会が「日本語の美しさや言葉のもつ力を見直したい」という願いから、年1回実施するもの。
第4回となる今回は、「人と人とをつなぐ日本語」がテーマだったそうだ。

今回、小学生の部で文部科学大臣賞を受賞した3年生のお子さんの全文が掲載され、車掌長の琴線に触れたので少々長いが紹介したい。(抜粋:2/8付読売新聞朝刊社会面より)
※なお、読みやすくするための行間は車掌長が空けたものなので、若干体裁は異なります。


題:「きっと、だいじょうぶ」

今年の夏、ぼくは一人で岩手県の八幡平市というところに行った。
東京駅から東北新幹線で盛岡まで行く。
そして花輪線に乗りかえて目的の場所までぼくは一人旅をした。

「不安だったら、あきらめてもいいんだよ」
お母さんは出発の当日までそう言っていた。

ぼくはとても不安だったけれども、どうしても、おばあちゃんに会いたかった。
不安よりもその気持ちのほうが強かった。

そして、とうとう発車の時刻になって、ぼくは心配そうに見送るお母さんに手を振った。

「ぼくはどこに行くの?」
となりのシートに座ったおじさんがそうたずねてきた。
「岩手県の八幡平です」
「ずいぶん遠くまで行くんだね。おじさんも八幡平には若いころ、行ったことがあるよ」

おじさんはそう言うとぼくを見てにっこり笑った。
けれどもぼくは黙っていた。
色の濃いサングラスが少し怖かったからだ。

新幹線に乗るのは初めてではない。
でも、東北新幹線に乗るのは初めてだった。
八幡平で民宿を経営しているおばあちゃんのところにはいつも自動車で行っていた。
時々、東北自動車道から新幹線が走っているところを見たことがあるけれど、その新幹線に今はぼくが乗っている。
なんとなく不思議な感じがした。

外の風景が山と田んぼばかりになったころ、車内販売がやってきて、となりのおじさんはビールとおせんべいとチョコレートとオレンジジュースを買った。

「ぼくからのプレゼント。はい、どうぞ」
おじさんがチョコレートとオレンジジュースをぼくに買ってくれたということよりも、おじさんが自分のことを「ぼく」と言ったことにぼくは少しおどろいた。

ぼくはお礼を言った。
今思うときっと小さな声でおじさんには聞こえていなかったと思う。

おじさんはビールを飲みながら新聞を読み始めていた。
お父さんやお母さんが読むふつうの新聞ではなくて、ちょっと変な新聞だ。
ぼくはとなりのおじさんがいい人なのか、そうではないのか、よくわからない感じがした。

「ぼくは盛岡でおりるんだろ」
突然、そう声をかけられてぼくはびっくりした。

「岩手の人はね、岩手山が見えると『きっと、だいじょうぶ』って気持ちになるんだよ」
おじさんは窓の外をゆびさして「今日はくっきりとよく見える」と言った。

大きな山が窓の外にははっきり見えた。
そういえば、お母さんも同じようなことを言っていたことをぼくは思いだした。

おじさんとぼくは盛岡駅で新幹線をおりた。
おじさんは宮古に行くと言った。
津波で家を流されてしまったけど家族は無事だったと教えてくれた。

そしてさいごに「きっと、だいじょうぶ。ちゃんと目的地に着けるよ」とぼくの頭をやさしくなでてくれた。

『きっと、だいじょうぶ』
その言葉はぼくの心の中に強く響いた。

以上

読み終えた瞬間、その光景が目に浮かぶようで心温まる感慨が込み上げた。
その感受性の高さも素晴らしい。

車掌長はこのお子さんの体験から、記憶の引き出しが開いた。
同じような年頃に一人旅をした想い出だ。

見知らぬ人が声をかけてくれるたびに、身構えたり、警戒したものだ。
でも、多くの人は持ち寄りの食べ物を分けてくれたり、励ましてくれたり、自分の身の上話をしてくれた。

今は物騒な世の中で、なかなか小さな子が一人で旅をするのは困難かもしれない。
それゆえ、この作文は車掌長の心底に染み入る郷愁があった。

強い寒風の日、そんな心がホットになった少年の文章に感謝したい。
 

続・今年が節目のもの

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2013年2月 2日 05:55

先日、今年が節目のものを幾つかご紹介した。
その後、某新聞で興味深い周年モノを知ったので続編としたい。

ケロリン桶50周年。
これは言わずとも知れ渡る、説明不要の一品であろう。
日本全国の銭湯や温浴施設、ときには温泉宿でも見られるプラスチック製の黄色い桶だ。

ケロリン桶は1963年、富山市の「内外薬品」が鎮痛剤であるケロリンの広告用につくられたとのこと。
子どもの頃の記憶として、黄色の外観と赤文字のケロリンの印象が鮮烈に残っている。
もちろん、ケロリンが商品名ということも知らず、当時似たような名前に「ケロヨン」というキャラクターがあり、類似のものかな…程度であった。

この桶に広告を施したアイデアは、江戸川区の某広告会社だそうだ。
残念ながら先月、経営者自身の高齢化や後継者がいないことを理由に事業を止める決断をしたとのこと。
しかしながら、内外薬品が業務を引き継ぐので、ケロリン桶は今後も世に送り出せるそうだ。

いまや銭湯も絶滅危惧種の様相。
後継者難や利用者減少による経営難も、各種媒体で伝えられて久しい。

お正月に映画「テルマエ・ロマエ」をTSUTAYAでレンタルし、観賞後に思ったが、銭湯は「ペンキ絵」が良い。
家からは見られない富士山や日本らしい風景を、湯船に浸かって眺めた幼い頃の情景が懐かしい…
このペンキ絵を描ける職人も、都内にはもはや2~3名しかいないそうだ。

ところで、自然な疑問が1つ湧いてきた。
男の子は一体何歳まで女湯に入れるのだろうか?
車掌長自身は、母と銭湯等に行ったことがないので、女湯に入ったという自身の記憶が全くない。
ある程度の歳になると、女湯に自然と入ってゆく男児をみては、羨ましいなどと煩悩が過(よぎ)るもの…

そこで、ちょっと調べてみたら、各都道府県で定める条例にその根拠となるものがあった。
公衆浴場の設置場所や衛生管理を定めた条例で、東京都であれば「10歳以上の男女を混浴させないこと」とある。
???…そこまで寛容なのか、とこれまた疑問。
しかしながら、この条例は1948年(昭和23年)のもの。
とは言え、その後この項目に関する改正はないようだから、公然と入って良いことになる。

東京以外はどうか?
概ね東京と同じ県が多いようだが、中には埼玉のように子どもの発育を考慮して近年改正した例がある。
だが、これは12歳以上を10歳以上に引き下げたものだから、やはり東京と同じだ。

ちなみに宿泊を伴う温泉宿の浴場は、厚生労働省が自治体へ通知した管理要領に「おおむね10歳以上の男女を混浴させない」としている。

思えば、江戸時代の銭湯は大人も混浴。
今の時代の文化や習慣と比較するから違和感があるが、当時はそれが当たり前だったのだろう。

ところで、江戸時代と記して別件の疑問が湧いたので一言。
先日某人気アイドルグループの一員が、御法度に興じてしまい頭を丸めたが、時代錯誤だなぁと感じた。
世の中がいくらグローバル化と騒いでも、それは上辺(うわべ)だけのことで、実は個人や社会のメンタリティは前近代的なのかもしれない…

旧態依然な柔道の指導者もしかり…
暴力指導が肯定、支持されるスポーツなど、国際的に見て絶対に容認されない。

昨年、メダリストが銀座の目抜き通りをオープンバスでパレードした華やかさやその場の群衆の歓喜を目にし、東京開催も良いかなと思ったが、その思いは一瞬で冷め切ってしまった。

オリンピック憲章にも反する行為が「氷山の一角」と認めた日本のスポーツ界であれば、それが改善されるまで、開催地立候補は取り下げるべきだと直感した。

その方が、国際的にも評価が高い日本古来の「武士道」の潔さとして、世界にその矜持(きょうじ)を示し、認められるであろう。
 

時間旅行は心のビタミン

カテゴリー:③番線:時間旅行、時刻表方面 2013年1月28日 06:38

この週末、学生時代のサークル仲間の結婚を祝う会を品川で行った。
卒業以来、二十数年ぶりに会う友も多くいた。

学生当時、社会福祉を学ぶなら我が母校か、他には東京と東北に数か所しかなく、全国から学生が集まり、みな寮や下宿生活をしながら学んでいた。

従って、今回の面々も下記のように全国各地の都府県から集まった。
栃木、群馬、埼玉、東京、神奈川、静岡、富山、愛知、京都、兵庫、広島、山口、高知、熊本、沖縄。
あいにく来られなかったが、案内状を出した仲間を加えれば、更に北海道から他県にも及ぶ一大イベントであった。

今や社会福祉を学べる学部や学科は、全国多くの大学に設置され、下宿をせずとも自宅から通えるという。
それはそれで、大変便利で結構なことかもしれないが、今回集まった顔ぶれに接すると、親元を離れ一人暮らしをして過ごした学生時代が「珠玉の時間」のように思いだされた。

今回集まったのは、サークルの会員が18名。
そして、その配偶者や乳幼児から中学生までの子どもが合わせて13名。
計31名での盛大な祝う会となった。

祝宴の舞台となった屋形船への乗船は、時間旅行の幕開けには格好の場であった。
また、宿泊ホテルでの2次会は、学生時代の想い出話で満開の笑顔。

日頃、仕事や日常生活に追われ、昔のことなど振り返る余裕もない我が世代。
しかしながら、仲間の結婚を祝う会をきっかけに再会し、当時へタイムスリップした時間旅行は、心のビタミン剤になったと感じる。

ビタミンは、それ自体はエネルギーとなる栄養素ではないが、ごく微量で他の栄養素の働きをスムーズにする働きがある。
車やバイクに例えれば、オイル(潤滑油)の役割を果たすと言える。

今回の時間旅行が、参加してくれた皆にとっても、今日からの日常が少しでも元気に過ごせるビタミン剤であったなら嬉しい限りだ。

(追伸)
このたびは、新郎新婦のTちゃん、Mちゃん、ご結婚おめでとうございます。
そして、各地から遠路、東京までお集まりいただいた皆さん、本当にお疲れ様でした。
特に富山からのご家族は、大雪でJRのダイヤに乱れがあり、さぞ大変だったと察します。

今回、皆さんのご家族にも沢山お会いできたこと、嬉しかったです。
どうぞ今後とも、こうした時間旅行を共にできることを、心から楽しみにしております。
(次回は熊本開催でしょうか?!)

それでは、まだまだ寒さが厳しいようです。
お体には気を付けてお過ごしください。

取り急ぎこの場を借りてお礼まで…
 

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